老人と綿虫のゐる個室かな
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まるで固有性を失った「老人」は、名前も性別も失い、まるで時間が止まっているようにそこに、「ゐる」。それは意味をもたず、記号のように、あるいは彫刻のように。それゆえに「老人」は「美」そのものと化している。 そのような無時間の「美」としての「老人」に対して、「綿虫」は時間そのものである。 例えば「老人と蓑虫」という場合と比較してみれば、この「綿虫」が時間そのものであることは明らかであろう。「綿虫」がいるために、この「老人と綿虫」のいる空間に時間が流れていることがかろうじて、わかる。 そして、この句の主役はその空間。つまり「個室」そのものである。それは一般的な「部屋」ではなく「個」を司っている。 日常生活における我々の「個」は、そこに「ある」というよりもむしろ「あるはず」のものとして想定されており、その想定が共有されているからこそ、お互いにお互いの「個」を認識することができるわけだが、この句においては全く固有性を失った老人の「美」と、想定された老人の「個」との差異が読み手の内において意味化する。それらを抱え込んだ「個室」という空間、そこに流れる「綿虫」という時間、これらがひとつの「壁掛け時計」のように、美しく秒を刻んでいる。そして、この句のまなざしは「個室」を出ることはない。 この句は作者の第四句集「白體」から引いたが、同集には他に〈晩冬の橋の向かうに個室あり〉がある。こちらのまなざしは「個室」の外部から「個」を健気に志向する。 いずれにせよ、掲句は「個室」という空間が生み出す密室劇のように、かけがえのない「個」のあり様を静かに美しく描き留めている。 |
評 者 |
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備 考 |
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