給与差押え
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 06:45 UTC 版)
大連駅の一夜か10か月ほど経った1920年(大正9年)10月10日、定太郎は東京市道路局長に就任した。「新道路局長が初月給の差押え(東京朝日10月20日付)」の見出しが新聞に載った。 記事は定太郎が蓮華鉱山合資会社社長のときの後腐れ話であった。「僕がある鉱山会社を起こしたとき、上田、大原の両人から多量の針金を仕入れた残額で、僕が責任者として裏書きしたものだが、会社が悲境に陥り債務を果し得なかったのだ」という定太郎の弁明のコメントが出ている。立憲政友会攻撃に新聞報道が傾く中、同年12月、定太郎は東京市道路局長を辞任し、代わりに反政友会の後藤新平が就任する。
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