経済官僚として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/28 08:48 UTC 版)
隋の煬帝の玄孫にあたる。祖父は楊政道。父の楊崇礼(楊隆礼)は州刺史を歴任し、清廉さと厳格さで知られており、太府卿にまで昇進した。太府での在職20余年の間、多くの無駄を省いたことで知られていた。開元21年(733年)、引退の時に玄宗に子の中で後任となれるものをたずねられた際、長兄の楊慎余・末弟の楊慎名を含む三人兄弟とも勤勉で清廉である中でも次男の楊慎矜が最も優れていると推薦している。 そのため、当時から落ち着きとその才覚で知られ、汝陽令として有能と評判であった楊慎矜は監察御史・知太府出納に抜擢された。弟の楊慎名も大理評事となり、相当な恩顧をこうむった。楊慎矜は数年で事務に通暁したが、諸州の上納した物で水に浸かっていたり破れたりしたものを皆、元の州に銭で納めるようにしたためにインフレが起き、そのため州県の徴調が絶えなくなったとされる。 天宝2年(743年)、右賛善大夫となっていた楊慎矜は、御史中丞の兼任を命じられたが、宰相の李林甫ににらまれることを恐れ固持したため、代わりに諫議大夫の兼任を命じられた。しかし、李林甫に屈した態度をとっていたため、同年に御史中丞・諸道鋳銭使に任じられている。
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