紀藤織文
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/18 13:43 UTC 版)
紀藤織文
きとう おりぶみ
|
|
---|---|
生年月日 | 1858年8月22日 |
没年月日 | 1947年8月17日(88歳没) |
出身校 | 和仏法律学校 (現・法政大学) |
親族 | 甥・紀藤閑之介(宇部市長) 大甥・紀藤常亮(衆議院議員) |
|
|
在任期間 | 1898年6月 - 1902年6月 |
厚狭郡会議員
|
|
![]() |
紀藤 織文(きとう おりぶみ、1858年8月22日〈安政5年7月14日[1]〉 - 1947年〈昭和22年〉8月17日[2])は、日本の政治家、実業家。
経歴
1858年、長州藩の永代家老福原家の家臣の家に生まれる[1]。
父は紀藤海蔵、兄に紀藤宗介(後の宇部共同義会初代会長)、紀藤礼蔵らがおり、1878年(明治11年)に家督を相続し、前名の織人から織文に改名した[3]。
長じて和仏法律学校に入学して法律学を修め、郷土の民政に参与した[1]。1898年(明治31年)6月から1902年(明治35年)6月まで宇部村長を務めた[4]。そのほか、厚狭郡会議員、山口県会議員などに選ばれ、地方政治に貢献した[1]。一転して宇部村の実業が盛んとなったものの、殖産興業に必要な銀行がないことに憤りを感じ、1912年(明治45年)に宇部銀行を設立し、その初代取締役頭取に就任した[5]。他にも一般公共の事業に尽くすことも多大であった。また文事の趣味があり詩歌をたしなみ凌雲の号があった[6][7]。宇部共同義会の会長もつとめた[8]。
家族
脚注
出典
- ^ a b c d 井関九郎撰『現代防長人物史 人』発展社、1918年、き8頁。国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 『近世防長人名辞典 増補 58コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ a b “紀藤織文 (第8版) - 『人事興信録』データベース”. jahis.law.nagoya-u.ac.jp. 2025年6月16日閲覧。
- ^ 『宇部市史 通史篇 308コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 『人物中心に見た西日本産業変遷記 258コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 吉田祥朔『増補近世防長 人名辞典』マツノ書店、1976年、99-100頁。
- ^ 山口県宇部地域における泊園書院出身者の事業活動の一考察―渡辺祐策を支えた名望家を中心に―横山俊一郎
- ^ 『宇部共同義会五十年誌 4コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- 紀藤織文のページへのリンク