立ちあがりくる夏汐のふぐり見ゆ
作 者 |
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季 語 |
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季 節 |
夏 |
出 典 |
火門集 |
前 書 |
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評 言 |
阿部青鞋を一口で言えば、昭和初期の新興俳句の残照と現代俳諧の曙光を孤独な光芒をを曳いて輝かせた俳人といえよう。この句は、昭和四十三年、作者五十四歳のときの句集『火門集』に収める。 夏の土用の頃の、波長の長い大きな磯波を想像させる。いわゆる土用波で、海岸に打ち寄せるときは、数メートルの高波となる。豪快なうねりが立ち上がってくる一瞬、その夏汐のふぐりが見えたという。もちろんここには、作者一流の見立てが働いている。眼前の夏汐のうねりの底の部分に、巨大なエネルギー発現の塊りを見、それを男のふぐりと見立てたとき、現実の夏汐は想像界の夏汐に化体して、主体的に知覚される。つまり、作者は夏汐の大事なモノを、瞬時に見ちゃったというのである。 この天然造化の存在感のおかしさには、青鞋ならではの談林調の俳諧味の洗練さがある。それは、晩年の作「南風がじろりと家の外を吹く」あたりに、その完成ぶりを見ることができよう。 |
評 者 |
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備 考 |
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