移動演劇の戦後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/28 10:18 UTC 版)
文学座は、1945年9月に疎開先の石川県から東京ら戻ったが、11月11日から11月23日まで日本移動演劇連盟指示下の公演が行われている。なお、文部次官から各地方長官宛に発せられた「公民館の設置運営について」(1946年7月5日 発社第122号)という通達には、「公民館の運営」において緊密に連絡し、協力を受けるべき各種文化団体のひとつとして、「財団法人日本移動演劇連盟」の名前が挙げられているため、敗戦後もしばらく連盟が存在していたことがうかがわれる。 前進座は、敗戦後いち早く日本移動演劇連盟から離れ、疎開も中止して、1945年から翌年にかけて三回の帝劇公演を実現した。1946年11月からかつての移動演劇のように、全国の学校講堂、公会堂、工場を巡回する公演を「青年劇場運動」としてスタートさせた。ここで活躍したのが日本移動演劇連盟で舞台装置の研究に取り組んだ伊藤熹朔の機動性に富んだ装置だった。「青年劇場運動」は、短期間に50万人前後の観客を動員する上演活動として成功をおさめ、これによって前進座は、1948年度の「朝日文化賞」を受賞することになる。
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