秋田藩士 八柳氏
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八柳氏はもともと独立した国人領主であったが、戦国大名安東氏の影響を強く受けてきた。檜山安東氏の当主安東愛季が同族湊安東氏の堯季の死後、その遺領である秋田湊を掌握するようになると、周辺の豪族である豊島氏、下刈氏、川尻氏らは、その勢力拡大に危機感を抱き、天正17年2月(1589年)、安東宗家(秋田氏に改姓)と豊島道季をはじめとする大平、新城、八柳氏連合軍との間で湊檜山合戦が始まった。一時、秋田実季を苦境に立たせるものの、やがて越後国の本庄氏を味方につけた実季が逆転し豊島勢を打ち破った。豊島氏に同調した下刈氏や川尻氏のみならず秋田湊の交易によって富を得ていた八柳兵三郎ら八柳氏や大平氏、新城氏らも経済的打撃を受け、八柳館主 八柳平治郎は秋田実季に臣従を余儀なくされ、以後、八柳氏は秋田氏の重臣として仕えた。 関ヶ原の戦いの後、秋田実季は常陸宍戸藩に転封となり秋田の地を離れることとなったが、八柳氏はこれに同行せず、代わりに秋田藩主に封じられた佐竹氏の当主 佐竹義宣に仕え以後、子孫は秋田藩士となった。
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