白石の働き
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 20:03 UTC 版)
所変わって大森(現在の大田区大森)では、乞食と乞食が言い争いをしていた。片方は新米の乞食であり、先輩乞食に挨拶するという乞食界隈のルールを破ったために言い争いをしていたのだった。通りがかった一般人が仲裁をしてくれたおかげでその場は収まったが、新米乞食は途方に暮れていた。すると、小汚い格好をした乞食が現れ、仲間に誘ってきた。その男は鈴ヶ森に住んでいる六という乞食で、新米乞食は六のねぐらへ招待される。そこで新米乞食は、自分の名前が治平であることを告げる。そして治平は、去年の夏頃に鈴ヶ森で喧嘩があったらしいと尋ねる。すると六は、「さんご、じゅうし」と争う声を聞いたと言う。さらに六は、しばらく経った後に役人が大勢やってきて首と胴体が分断されている水死体があがったと騒いでいたと言う。そしてその死体は浄願寺という寺に運ばれたらしい。六が一通り話し終えると、治平は懐から麻縄を取り出し「拙者、こういう者だ」と告げる。治平の真の正体は、同心(現在でいう警察官)の白石治右衛門(しらいしじえもん)だったのである。すぐさま浄願寺へ行き事情を話すと、例の死体が身につけていたという煙草入れが保管されていた。その煙草入れには、質屋が書いた「三五郎殿」という札が入れてあった。例の死体が三五郎であるという決定的な証拠を発見し、六の証言と合わせれば「さんご、じゅうし」は三五郎と重四郎ということになる。さて、大岡越前の役宅では畔倉が証拠を出せと喚いていた。そこへ白石治右衛門が到着する。白石が押収した証拠品と六の証言を提示し、ついに畔倉は牢獄されることとなった。しかし、その証拠は畔倉が三五郎を殺害した証拠であり、城富が求める「穀屋平兵衛殺し」の証拠ではなかった。そのため、畔倉が平兵衛殺害を自白するまで大岡越前の首はお預けとなった。
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