画一宗派と分離独立派の抗争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 00:22 UTC 版)
「真言宗」の記事における「画一宗派と分離独立派の抗争」の解説
1896年(明治29年)、醍醐寺が真言宗からの分離独立、金剛峯寺も同様の請願が、真言宗宗会に提出された。この請願は内務省で審議されたが、結局、不認可となった。 1899年(明治32年)10月、真言宗宗会にて、画一宗派(かくいつしゅうは。古義・新義真言宗各派が合同協力して、全真言宗を統括していく)と分離独立派(古義・新義真言宗の各本山には、歴史的経緯や事相(真言密教の修法・儀礼)の流派の違いなどから、各本山ごとで独自の宗派を立てて、宗団を維持していく)の2派による対立があり、紛糾した。
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