王衍 (西晋)
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王 衍(おう えん、甘露元年(256年) - 永嘉5年4月1日[1](311年5月5日))は、西晋の政治家・武将。字は夷甫。本貫は琅邪郡臨沂県。父は平北将軍の王乂。子は王玄。族弟は王敦と王導。従兄に竹林の七賢で有名な王戎、弟に王澄と王詡がいる[2]。
- ^ 『晋書』巻5, 懐帝紀 永嘉五年四月戊子条による。
- ^ 駒田『新十八史略4』、P76
- ^ 『晋書』王衍伝には「神情明秀,風姿詳雅」とある。意味はほぼ本文に同じ
- ^ 駒田『新十八史略4』、P77。『晋書』王衍伝の原文では「「何物老嫗,生甯馨兒!然誤天下蒼生者,未必非此人也。(書き下し:何物の老嫗が、甯馨兒を生むか!然れども天下の蒼生を誤る者,未だ必ずしも此の人に非ずや。)」とする。このことから寧馨児は「神童」を意味する故事成語となった。
- ^ 『晋書』王衍伝の原文では「衍既有盛才美貌,明悟若神,常自比子貢。兼聲名藉甚,傾動當世。」とある。
- ^ 『晋書』王衍伝の原文では「朝野翕然,謂之一世龍門矣。累居顯職,後進之士,莫不景慕放效。選舉登朝,皆以為稱首。矜高浮誕,遂成風俗焉。」とある。
- ^ 駒田『新十八史略4』、P78
- ^ 川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P58
- ^ 三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P48
- ^ 『晋書』王衍伝の原文では「越之討苟晞也,衍以太尉為太傅軍司。及越薨,衆共推為元帥。」とある。
- ^ 『晋書』王衍伝「俄而舉軍為石勒所破,勒呼王公,與之相見,問衍以晉故。衍為陳禍敗之由,云計不在己。勒甚悅之,與語移日。衍自說少不豫事,欲求自免,因勸勒稱尊號。勒怒曰:「君名蓋四海,身居重任,少壯登朝,至於白首,何得言不豫世事邪!破壞天下,正是君罪。」使左右扶出。」とある。『資治通鑑』『十八史略』ではやや文章が異なる。この部分の駒田信二『新十八史略4』の文章は史書と著しく異なっており、小説以外の何物でもない。
- ^ 宮崎市定『大唐帝国 中国の中世』中公文庫の解釈によった。宮崎は満州国滅亡時の愛新覚羅溥儀が自分に責任はないと東京裁判で言い放ったことと比較し、王衍や溥儀には中国人らしい図々しさと図太い生命力があるとしている。
- ^ 『晋書』王衍伝には勒曰:「要不可加以鋒刃也。」とある。
- ^ 『晋書』王衍伝に「衍將死,顧而言曰:『嗚呼!吾曹雖不如古人,向若不祖尚浮虛,戮力以匡天下,猶可不至今日。』」とある。訳文は駒田による。
- ^ 駒田『新十八史略4』、P112
- 1 王衍 (西晋)とは
- 2 王衍 (西晋)の概要
- 3 脚注
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