牢屋敷内の構成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/23 18:29 UTC 版)
牢屋敷の責任者である囚獄(牢屋奉行)は大番衆の石出帯刀であり、代々世襲であった。その配下として40人から80人程度の牢屋役人、獄丁50人程度で管理をしていた。 囚人を収容する牢獄は東牢と西牢に分かれていた。身分によって収容される牢獄が異なり、大牢と二間牢は庶民、揚屋は御目見以下の幕臣(御家人)、大名の家臣、僧侶、医師、山伏が収容されていた。 また独立の牢獄として揚座敷が天和3年(1683年)に設けられ、御目見以上の幕臣(旗本)、身分の高い僧侶、神主等が収容された。身分の高い者を収容していたため、ほかの牢より設備は良かったようである。 大牢と二間牢には庶民が一括して収容されていたが、犯罪傾向が進んでいることが多かった無宿者が有宿者(人別帳に記載されている者)に悪影響を与えるのを避けるため、宝暦5年(1755年)に東牢には有宿者を、西牢には無宿者を収容するようになった。また安永5年(1775年)には独立して百姓牢が設けられた。 女囚は身分の区別なく西の揚屋に収容された(女牢)。 収容者の総数は大体300から400人程度だったようである。
※この「牢屋敷内の構成」の解説は、「伝馬町牢屋敷」の解説の一部です。
「牢屋敷内の構成」を含む「伝馬町牢屋敷」の記事については、「伝馬町牢屋敷」の概要を参照ください。
- 牢屋敷内の構成のページへのリンク