牟羽可汗のマニ教受容
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/21 02:28 UTC 版)
宝応元年(762年)8月、牟羽可汗が唐へ侵攻した際に、マニ教を受け入れたということが、後の第8代保義可汗(在位:808年 - 821年)が建てた『カラ・バルガスン碑文』に書かれている。(※下の文の[ ]は小さい破損部分、・・・は大きな破損部分を示す) 今、神である王(=可汗)の・・・がこの手(で?)、すべての火を燃やす宗教(の代わりに?)、神であるマール・マーニーの宗教を受け入れ[た?]。それから神である王(=可汗)は[ ]と宗教を受け入れた。 — 『カラ・バルガスン碑文』ソグド語面 可汗は東都(洛陽)に駐屯して風俗を視察し、・・・(マニ教最高僧である)[ ]法師は、睿息ら4人のマニ僧を率いて回鶻に入り、マニ教を布教させたが、彼らはよく三際に通じていた。 — 『カラ・バルガスン碑文』漢文面 こうして牟羽可汗の治世においてマニ教が受容されたが、反対派も存在したらしく、大暦14年(779年)の頓莫賀達干(トン・バガ・タルカン)の政変(クーデター)によってソグド人が弾圧されると、マニ教も弾圧された。この後、回鶻におけるマニ教はいったん息をひそめるが、第7代懐信可汗(在位:795年 - 805年)の代になってふたたび開花し、名実ともに回鶻可汗国の国教となった。
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