燈籠仏の衰退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 08:18 UTC 版)
明治6年(1873年)10月18日には山梨県令・藤村紫朗が教部省に稟議(りんぎ)し、山梨県庁から「山梨郡善光寺燈籠仏を以って吉凶禍福を卜するを禁ず」の通達が出され、燈籠仏を用いた占いが禁止される。 県の通達により燈籠仏の信仰は衰微し、1903年(明治36年)の佐野通正編『甲斐繁盛記』では燈籠仏を本尊の別称と記している。一方で、1897年(明治30年)に甲府市酒折に築かれた庭園「不老園」では、成否を燈籠仏によって占ったという。1919年(大正8年)には土屋操が『甲斐史蹟』において、明治39年の内務省による古社寺保存会の宝物調査で燈籠仏の開封が行われたと記している。 1925年(大正14年)には山梨県立第一高等女学の校友会誌『松のしらべ』において燈籠仏の伝承が記されている。1936年(昭和11年)には土橋里木が『続甲斐昔話集』において燈籠仏の伝承を記している。土橋は同書いおいて甲州弁では頑固者の意味で「燈籠仏」が用いられたとしている。
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