源資信
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/07 03:31 UTC 版)
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時代 | 鎌倉時代中期 |
生誕 | 元久2年(1205年)以降? |
死没 | 建長3年6月1日(1251年6月28日)以降? |
官位 | 従三位、非参議 |
主君 | 順徳天皇→仲恭天皇→後堀河天皇→四条天皇→後嵯峨天皇→後深草天皇 |
氏族 | 宇多源氏 |
父母 | 父:源時賢、母:不詳 |
兄弟 | 有資、資信、三条実親室 |
子 | 時経 |
源 資信 (みなもと の すけのぶ)は、鎌倉時代中期の公卿。宇多源氏。従二位・源時賢の次男。官位は従三位・非参議。
経歴
従二位・源時賢の次男として誕生[1]。生年は不明だが実兄有資の生年が元久元年(1204年)[1]のため、元久2年(1205年)以降と推定される。
順徳朝の承久元年(1219年)叙爵[1]。文暦元年(1234年)正五位下、嘉禎4年(1238年)従四位下、寛元元年(1243年)正四位下と昇進する一方、伊予介、飛騨守[2]、美濃守と地方官を歴任した[1]。建長2年(1250年)父よりも早く従三位・非参議に任ぜられ、公卿に列するが、翌建長3年(1251年)6月に出家[1]。出家後の消息は不明。
人物
資信の実兄は後深草・亀山・伏見の3代にわたり天皇の郢曲師範を務めた源有資であり、資信自身も和琴に優れていた[3]。
官歴
注釈のないものは『公卿補任』による
- 承久元年(1219年) 8月16日:叙爵(従五位下)。12月13日:侍従
- 貞応2年(1223年) 正月27日:兼伊予介
- 嘉禄3年(1227年) 正月5日:従五位上
- 天福元年(1233年) 7月:飛騨守[2]
- 文暦元年(1234年) 12月21日:正五位下
- 嘉禎4年(1238年) 正月5日:従四位下。正月7日:侍従如元
- 延応元年(1239年) 10月28日:従四位上
- 仁治3年(1242年) 12月25日:左近衛少将
- 寛元元年(1243年) 7月27日:正四位下
- 寛元2年(1244年) 12月17日:転左近衛中将
- 寛元4年(1246年) 2月23日:兼美濃守
- 建長2年(1250年) 正月5日:従三位、非参議
- 建長3年(1251年) 6月1日:出家
系譜
注釈
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