源義基_(木曾義基)とは? わかりやすく解説

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源義基 (木曾義基)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/08 19:39 UTC 版)

 
源義基
時代 平安時代末期
生誕 1180年頃
死没 不詳
別名 朝日三郎義基、木曾義基
墓所 木曾三柱神社境内。群馬県渋川市北橘村箱田777番地
氏族 清和源氏為義流(河内源氏
父母 父:源義仲、母:巴御前?[1]
兄弟 義高義重?、義基[1][2]基宗?、源頼家妾(竹御所母)?
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源 義基(みなもと の よしもと)は、平安時代後期の河内源氏の流れを汲む信濃源氏武士朝日三郎義基と号す。『木曽考』『木曽殿伝記』では源義仲の三男とし、木曾氏の祖とする[3]。母は明治時代の『岐蘇古今沿革志』では巴御前とする[1]が根拠に乏しい。

延慶本『平家物語』や『尊卑分脈』では、『吾妻鏡』での源義高に相当する人物が「義基」となっており、義高とは別人で弟とされる義基が実在するかは疑問がある。

略歴

元暦元年(1184年)、粟津の戦いで父・義仲が敗死した後、安曇郡の豪族仁科義重に臣従し、曽山神明宮(長野県大町市八坂)に庇護され、のちに木曽谷の領主に据えられた[4]。また、義仲が戦死すると、家臣であった今井氏高梨氏、楯氏、町田・小野沢・萩原・串渕・諸田など諸氏に匿われ、現在の群馬県渋川市北橘村箱田に落ち延びたともされる。

当地は義仲が崇敬した信濃国長野県)の延喜式内社である筑摩郡の三座「岡田・沙田・阿礼神社」を、勧請して創建したと伝えられるのが箱田神社、後の木曾三柱神社木曾三社神社である[2][5]

脚注

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  1. ^ a b c 武居用拙『岐蘇古今沿革志』(明治23年(1890年))
  2. ^ a b 今井善兵衛著『更生農村 : 北橘村の実情 』日本評論社(1935年
  3. ^ 蘆田伊人 編「国立国会図書館デジタルコレクション 木曽考」 『諸国叢書』 木曽之2、大日本地誌大系刊行会〈大日本地誌大系 ; 第12,14冊〉、1916年6月。全国書誌番号:43020303https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/952772/144 国立国会図書館デジタルコレクション  p. 304.
  4. ^ 曽山友滋著 『木曽義仲遺児「万寿丸」と安曇豪族「仁科氏」』歴研、2015年、p.30
  5. ^ 木曾三柱神社-木曾三社神社の歴史

参考文献

  • 今井善兵衛 『更生農村 : 北橘村の実情』日本評論社、1935年。 
  • 今井善一郎 『赤城の神』煥乎堂、1974年。 
  • 今井善一郎 『習俗歳時記』煥乎堂、1975年。 
  • 群馬県史編さん委員会 編 『群馬県史』群馬県、1989年。 



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