湯原ダム計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 08:12 UTC 版)
1954年、湯原ダム建設に伴い、二川村の一部は水没している。ダム建設の計画がはじめに出されたのは1919年(大正8年)備作電気株式会社によるものだった。しかし当時はまだ電力の需要がほとんどなくまた資金も多額になるため、実現はしなかった。1951年(昭和26年)湯原ダムの建設計画が本格的に動きはじめる。県営も視野にあったが資金的に難しく、民間の中国電力株式会社の事業となった。1954年に湯原ダムが完成。ただ二川村大字小童谷の田和・釜戸原・湯川・小童谷・日名田・神原、大字黒杭の内・土居分・黒杭の一部が水没。それにより各地域にあった維新小学校・二川巡査駐在所・二川郵便局・黒杭診療所・二川第一農業協同組合・小童谷公民館・田和うらじろ樫などの施設等が水没した。
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