温湯城の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 15:40 UTC 版)
永禄元年2月に毛利軍(吉川元春)が迫ったため、長雄は尼子軍と共に別当城(邑南町)に陣を構えて迎え撃つが温湯城に退却(出羽の戦い)。しかし、毛利軍は湯温城を落とせなかった。 そこで同年または翌年の5月下旬に、毛利元就・毛利隆元・小早川隆景らも合流した1万2000の軍勢で侵攻。周辺の日和城や赤城も攻め落とされ、6月には温湯城を囲まれた。この時元就は、温湯城のすぐ東側に陣城である会下山城(えげやまじょう)を作っている。 7月には尼子晴久は援軍として出陣するが、豪雨の影響による増水で江の川を渡河できなかった。そのため、隆景の説得を受け入れた8月に開城。長雄は死を免れて甘南備寺(江津市)に移された。
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