渡部善次郎とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 渡部善次郎の意味・解説 

渡部善次郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/07 02:35 UTC 版)

渡部 善次郎(わたなべ ぜんじろう、1877年明治10年〉 - 1939年昭和14年〉)は、日本の教育者経済学者松山高等商業学校第2代校長[1]

人物・経歴

1877年(明治10年)、愛媛県下浮穴郡田窪村(後の温泉郡重信町、現・東温市)に生まれる[1]

1897年(明治30年)に松山中学校を卒業し、文部省中等教員検定試験に合格して松山中学校の教員となった[1]

自学の志が高く、東京に出ると、東京英語専修学校立教大学の前身校の一つ)で学ぶ[2]。 しかし、1903(明治36年)に東京英語専修学校が閉校すると、同年、早稲田大学に編入して、翌1904年(明治37年)に大学部政治経済学科を卒業する[1][3]

同年、留学のためアメリカに渡り[1]、1905年(明治38年)にイェール大学に入学すると、1907年(明治40年)に経済学を修めて大学院を卒業し、修士MA)の学位を取得した[3]

日本に帰国した後、東洋大学拓殖大学など数校で教鞭を執った[1]

その後、郷里の愛媛へ戻り、1923年(大正12年)に松山高等商業学校(後の松山商科大学、現・松山大学)の創立とともに校長となった加藤彰廉の補佐役として教頭職に就任して、旧制松山高等学校(現・愛媛大学)の講師も兼務した[1]

1924年(大正13年)の衆議院議員選挙に際して、大正デモクラシーの風潮がある最中、松山高校と松山高商の教官と学生に要請されて、学者候補者として立候補することとなったが落選した[1]

1931年(昭和6年)に、脳溢血で倒れると健康が回復せず、松山高等商業学校教授を辞任したが、同年11月の加藤校長死去の後を受けて、理事であった井上要の強い推挙もあったことから、松山高等商業学校2代目校長に就任した[1]

しかし、教職員の中には言語障害の病状から校長就任を不本意とする空気もあり、風紀取締規則の強化や教授解職問題など、学生間にも校長排斥の動きが生じることとなり、1934年(昭和9年)5月には、卒業生数人による睦月島監禁・校長退任要求事件が起こって校長を辞職した[1]

1939年(昭和14年)、62歳で没した[1]

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k 愛媛県生涯学習センター 『渡部 善次郎(わたなべ ぜんじろう)』 愛媛県史 人物,平成元年2月28日
  2. ^ 立教史データベース 『校友会・立教学院英語専修学校出身者』 『立教学院学報』第8号,1915年10月
  3. ^ a b 小川原 正道「東京専門学校とイエール大学 -朝河貫一を中心に-」『早稲田大学史記要』第54巻、早稲田大学歴史館、2023年3月、27-45頁、ISSN 0511-1919 



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  渡部善次郎のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「渡部善次郎」の関連用語

渡部善次郎のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



渡部善次郎のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの渡部善次郎 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS