清統治時代の反清闘争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/09 03:07 UTC 版)
1721年(康熙60年)、清朝官人の重税に苦しむ民衆の叛乱が発生した。鴨母王朱一貴事件と称されるこの叛乱では岡山鎮を占拠した後、台南府城を陥落させ朱一貫は中興王を自称した。しかし内部対立によりまもなく崩壊し、叛乱は失敗に終わった。 1732年(雍正10年)、彰化大甲西荘で土蕃騷動が発生した。鳳山の呉福星は清朝の軍勢が討蕃のため北に向かった間隙を利用し頭山、赤山などで叛乱を起こし、鳳山の攻撃を計画した。反乱軍は岡山旧汎塘を焼き払い、旧券城埤頭を攻撃、万丹巡検署などが殺害された。しかし間もなく叛乱は平定されている。 1770年(乾隆35年)、善化地区の黄教教徒による叛乱が発生している。記録によれば黄黃は牛を盗む盗賊であったが、台湾が清朝に搾取されていることに心を痛め、10月1日に朱一徳を軍師とし陳宗寬、鄭純石などと共に叛乱を岡山にて起こした。翌年3月27日、台湾知府であった鄒應元が率いる兵により李背敗北し、黄教教徒は敗走、その後の消息は不明である。 1787年(乾隆52年)、台湾中部で林爽文の叛乱が発生した。左営の鳳山県城を攻撃するが、翌年叛乱は平定されるが、清朝は県治を埤頭街と移転し、鳳山市左営因は旧城と称されるようになった
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