洞泉寺 (豊田市)
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洞泉寺 | |
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所在地 | 愛知県豊田市小坂町3-10 |
位置 | 北緯35度05分23.2秒 東経137度08分36.4秒 / 北緯35.089778度 東経137.143444度 |
山号 | 霞渓山 |
宗旨 | 浄土宗 |
創建年 | 正和2年(1313年) |
中興年 | 寛正元年(1460年) |
中興 | 廓譽清嘆 |
洞泉寺(とうせんじ)は、愛知県豊田市小坂町3-10にある浄土宗の寺院。山号は霞渓山[1]。知恩院の直末寺。
歴史
中世
正和2年(1313年)、上伊保の霞渓(現・豊田市保見町)に法相宗の寺院として創建された[1][2][3]。後に天台宗に改宗した[1][2][3]。建武年間(1334年 - 1337年)、建武の乱の兵火によって荒廃した[1][3]。
室町時代の正長・永亨年間(1428年 - 1441年)に再興された[1][3]。宝徳元年(1449年)、下総国の弘経寺開山である良肇の弟子廓譽清嘆が遊行中に洞泉寺に入り、寛正元年(1460年)には浄土宗に改宗して開山となった[1][2]。応仁2年(1468年)、衣郷の夏焼(現・豊田市小坂本町)に移転した[3]。
近世
万治3年(1660年)、11世の本譽上人によって挙母城の北西(現・豊田市桜町)に移転し[3]、山内には塔頭として廓洞院、昌樹院、採養院を並立させた[1]。元文4年(1739年)には観音堂を再建した。寛延2年(1749年)、16世の恵舟の代に内藤家が挙母城主に入封すると、洞泉寺は内藤家の現地菩提所となり、近隣地域に末寺も増えた[2]。
天明2年(1782年)、挙母城が水害の不安のない童子山に築城されると、19世の信海は天明3年(1783年)から移転(移築)を開始した[1]。天明4年(1784年)には本堂を再建し、天明5年(1785年)には庫裏を再建した[2]。享保2年(1802年)には鐘楼を新築した[2]。幕末には本堂が再建された。
近代
1879年(明治12年)には善光寺堂を新築した。
現代
1959年(昭和34年)9月の伊勢湾台風では損傷被害も受けた[2]。1971年(昭和46年)には浄土宗開宗800年記念事業として、本堂・庫裡・善光寺堂などが鉄筋コンクリート造で再建された[3]。この際には山門・鐘楼・観音堂などの位置は変えていないが、主要な堂宇を約15メートル後退させ、前庭を拡張させている[2]。
1994年(平成6年)には洞泉寺別院である紫雲閣を建立した[3]。1995年(平成7年)には東海地方初となる永代供養墓を建立した[3]。2004年(平成16年)には寺子屋人生塾を開講した[3]。俳優の津川雅彦が命名している[3]。寺子屋人生塾で講師を務めた人物には、津川雅彦、芸術家の山内一生、プロ野球選手の木俣達彦、声優の森山周一郎、漫談家の牧伸二、実業家の吉川幸枝、俳優の村野武範、作家の家田荘子、ラジオパーソナリティのツボイノリオ、リポーターの東海林のり子、作家のジェームス三木、女優の藤田弓子、トヨタ自動車顧問の佐々木紫郎、古美術鑑定家の中島誠之助、エッセイストのアグネス・チャン、漫才師の辻イト子、作家・経済評論家の渡邉哲也、学校法人学習院院長の内藤政武、フリーアナウンサーの多田しげおなどがいる[4]。
境内
- 本堂 - 1971年(昭和46年)再建。
- 庫裏
- 書院
- 旧書院 - 1926年(昭和元年)再建。
- 善光寺堂 - 1971年(昭和46年)再建。
- 茶室 - 名称は洗心庵。 - 1971年(昭和46年)建立。
- 山門 - 享保2年(1802年)建立。
- 鐘楼
- 三十三観音堂
- 観音堂
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山門
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鐘楼
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梵鐘
文化財
市指定史跡
現地情報
- 所在地
- 交通アクセス
脚注
参考文献
- 『豊田市の寺社建築 3 浄土宗寺院』豊田市教育委員会、1998年。
- 豊田市文化財保護審議会『豊田の史跡と文化財』豊田市教育委員会、1985年。
外部リンク
- 洞泉寺_(豊田市)のページへのリンク