法華経の霊験
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 05:53 UTC 版)
天正14年(1586年)、第16代種子島久時は藩主島津義久の大友氏攻めに従軍した。出陣の儀式は、慈恩寺の釈迦堂・祖師堂・番神堂の三堂を拝礼し、拝殿で法華経を拝戴するという慣例であった。ところが、久時は三堂を拝礼したものの、拝殿で法華経を拝戴せずに乗船しようとした。ときの住職・月困は久時を追って渚で引き留め、「拙僧、身は不肖ながら、経文の価値は少しも変わりません。ぜひ、法華経を拝戴してください」と諫め、ついに久時も拝戴して出陣した。 月困はこの日から堂前の古松の下に石壇を築き、昼夜軍行祈祷を行った。あるとき、この石壇が崩れ、月困は大いに喜んで「ただ今、敵城落城の由」と、領主の館に告げた。後に久時が凱旋してこの話を聞いたところ、筑前岩屋城の落城日時と一致していたという。
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