沼垂町との合併
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/28 19:33 UTC 版)
「新潟市の行政区域の変遷」の記事における「沼垂町との合併」の解説
新潟市と沼垂町との合併。「信濃川を挟んだ二つの町は、早くから合併したほうが良い」という意見は早くからあり、1880年(明治13年)ごろにはすでに話題にあげられていた。 しかし、江戸時代の湊をめぐる度重なる訴訟や、明治以降も続いた漁場をめぐる争いなどがあり、一般の人々の間には反目が残っていた。さらに、1896年(明治29年)から1897年(明治30年)には北越鉄道(信越本線)の終着駅の位置をめぐって新潟市と沼垂町は争い、鉄道施設の爆破事件まで起きていた。このため、新潟市と沼垂町の合併は、容易に実現できるものではないと考えられていた。 1907年(明治40年)に沼垂町で大火があったとき、新潟市の消防ポンプが活躍したことがきっかけとなって、合併問題が日程に上がるようになった。消防の礼に沼垂町長と助役が新潟市長を訪問した際に、新潟市と沼垂町が合併して大都市を建設するということが話題となったことから、両者は、折を見て合併に向けて懇談会を開催することを約束した。
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