水兵達のその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 21:20 UTC 版)
「ポチョムキン=タヴリーチェスキー公 (戦艦)」の記事における「水兵達のその後」の解説
1905年の反乱に参加した水兵の大部分は、1917年の2月革命までルーマニア国内に残る事を選択した。反乱の直後にロシアに戻った水兵も居たが、少なくとも56人が反乱罪で投獄され、うち7人が首謀者として処刑されている。その一方で、下士官の中には「水兵の脅迫の下に行動したのみである」と主張して免罪を受けたものも居た。 ルーマニアには約600人の水兵が残留した。首謀者の一人マチュシェーンコは1907年に恩赦の約束の下に4人の同僚と共にロシアに帰国したが、約束は反故にされ絞首刑に処された。別の首謀者の一人であるJoseph Dymtchenkoは、1908年に31人の元水兵と共にアルゼンチンに脱出し、彼の地に定住した。最後まで生存した元水兵はIvan Beshoffで、トルコとロンドン(彼はロンドンでレーニンに会ったと主張していた。)を経由してアイルランドに脱出、ダブリンに定住した。彼はダブリンでフィッシュ・アンド・チップスの販売店を経営し、1987年10月25日に102歳で死去した。
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