毗曇の乱
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善徳女王の11年(642年)8月、百済によって大耶城(慶尚南道陜川郡)が陥落させられた。大耶城奪回のため、対百済戦の救援軍を求めて王族の金春秋(後の武烈王)が高句麗に赴いたが、高句麗からの援軍は得られなかった。 643年9月には唐に使者を送って高句麗・百済(麗済同盟)を討つ救援軍を求めたが、唐からは援軍を派遣する条件として、女王を廃して唐の王室から新王を立てることを迫られた。唐の要求に対して新羅国内では親唐派と反唐派が対立した。毗曇は、女王自らが上大等に任命したにもかかわらず、親唐派の先頭に立った。善徳女王 16年の647年正月、毗曇は廉宗(ヨムジョン、真骨の貴族)などとともに「女主不能善理(女性君主は国を治めることができない)」と唱えて反乱を起こした。 金庾信に月城を先に掌握された毗曇は、明活山城に陣を張って対峙した。『三国史記』によれば、毗曇の反乱は十余日で鎭圧され、彼の九族は全て滅ぼされた。『三国史記』真徳王条によれば、この乱に連座して死亡した者は30人だった。 毗曇の乱が進行する途中の正月8日、善徳女王は崩御し、続いて真徳女王が新羅の第28代国王として即位した。
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