毗曇の乱とは? わかりやすく解説

毗曇の乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/17 07:36 UTC 版)

毗曇」の記事における「毗曇の乱」の解説

善徳女王11年642年8月百済によって大耶城(慶尚南道陜川郡)が陥落させられた。大耶城奪回のため、対百済戦の救援軍求めて王族金春秋(後の武烈王)が高句麗赴いたが、高句麗からの援軍得られなかった。 643年9月には唐に使者送って高句麗百済麗済同盟)を討つ救援軍求めたが、唐からは援軍派遣する条件として、女王廃して唐の王室から新王を立てることを迫られた。唐の要求に対して新羅国内では親唐派と反唐派が対立した。毗曇は、女王自らが上大等に任命したにもかかわらず、親唐派の先頭立った善徳女王 16年647年正月、毗曇は廉宗(ヨムジョン、真骨の貴族)などとともに女主不能善理(女性君主は国を治めることができない)」と唱えて反乱起こした。 金庾信に月城先に掌握された毗曇は、明活山城に陣を張って対峙した。『三国史記によれば、毗曇の反乱は十余日鎭圧され彼の九族全て滅ぼされた。『三国史記真徳王によれば、この乱に連座して死亡した者は30人だった。 毗曇の乱が進行する途中正月8日善徳女王崩御し続いて真徳女王新羅の第28代国王として即位した

※この「毗曇の乱」の解説は、「毗曇」の解説の一部です。
「毗曇の乱」を含む「毗曇」の記事については、「毗曇」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「毗曇の乱」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  毗曇の乱のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「毗曇の乱」の関連用語

1
毗曇 百科事典
14% |||||

毗曇の乱のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



毗曇の乱のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの毗曇 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS