次の日となつてをりたる夜の蟬
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季 語 |
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夏 |
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前 書 |
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評 言 |
ものを見て、五七五のうえにことばを置くと、そこに書かれた「見えている世界」にまるで彗星の尾のような「見えない何か」が付与される。 掲句は「次の日」という上五によって、句のまなざしの起点がここに書かれていない「見えない前日」に設定される。まるで昨日の「たましい」だけが抜けだして、いまここで「夜の蟬」を聞いているような。 それは「時間」だけが早送りされて句の主体を置き去りにしたような、絶対的な「遅れ」。そのような「時間」のあり様への畏怖。ふと目を瞑った瞬間に、一日という時間が経過してしまったような驚き。こればかりは人間のちからではどうしようもないもので、抗うことができないという意味では紛れも無い「自然」である。 それによって、この句を俯瞰的に見つめている主体と、いまここで「夜の蟬」を聞いている主体は分裂する。この分裂した主体間に発生する空間が何を意味するのか、それが読み手の興味の対象となる。ここにシンプルで深い謎が発生する。 なぜ昨日の主体が彗星の尾のように描き出されなければならなかったのか、昨日やり残したことは何なのか。それについてこの句は何も具体的に触れていないのだが、そこで反復される「夜の蟬」が時間的な要となって、「昨日」への「名残惜しさ」だけが別の生き物のように句の前景でウロウロしている。もちろんこの「名残惜しさ」は、「昨日」が象徴的に代表する「過去」一般に拡張されてしかるべきだろう。 この、すでに過ぎ去った時間がいまここにある主体とは異なる「他者」として人格化されるところに、ある種の人間的な視点が含まれていて、この素朴な一句に可笑しみと哀しみをさり気なく与えている。 |
評 者 |
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備 考 |
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