橘ノ圓 (初代)
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初代
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![]() 三遊亭圓朝一門定紋「高崎扇」 |
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本名 | 五十嵐 銀次郎 |
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生年月日 | 1870年 |
没年月日 | 1935年6月29日 |
出身地 | ![]() |
死没地 | 京都 |
師匠 | 初代三遊亭圓朝 3代目柳家小さん |
弟子 | 橘ノ圓都 橘ノ圓天坊 橘ノ百圓 桂團丸 橘ノ次郎 |
名跡 | 1. 三遊亭朝治 2. 2代目橘家圓三郎( - 1906年) 3. 初代橘ノ圓(1906年 - 1910年) 4. 柳家圓(1910年 - ?) 5. 初代橘ノ圓(? - 1935年) |
活動期間 | ? - 1935年 |
活動内容 | 古典落語 寄席踊り |
配偶者 | 初代立花家橘之助 |
家族 | 2代目三遊亭圓馬(兄) |
所属 | 三遊派 圓頂派 柳派 三友派 浪花落語反対派 |
主な作品 | |
『子は鎹』 『三味線栗毛』 |
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備考 | |
墓所:神楽坂の清隆寺 法名:清浄院橘圓日香居士 |
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初代橘ノ 圓(たちばなの まどか、1870年[注釈 1] - 1935年6月29日[1])は、明治から昭和にかけて活動した落語家。本名、五十嵐 銀次郎[1]。兄は2代目三遊亭圓馬[1]。
生涯
11歳の時、初代三遊亭圓朝門下となり、朝治(または朝二、圓治[要出典])を経て、2代目橘家圓三郎となる[1]。1891年、師圓朝の寄席引退に同調した兄圓馬の上方巡業に同行し、そのまま兄弟ともに大阪に定住[1]。1906年、師圓朝の7回忌の時に「圓頂派」を結成し、橘ノ圓を名乗る[1]。
一門は全て坊主頭といった出立ちで、 主に神戸を中心に高座に上がり[要出典]、巡業にもよく出た[1]。1910年に帰京し、3代目柳家小さん門下となり柳家圓を名乗るが、間もなく大阪へ戻り、橘ノ圓に復す[1]。大阪では三友派に属していたが、後に5代目橘家圓太郎らとともに浪花落語反対派に移る[1]。大阪を拠点としながらも、東京でも時々寄席に上がっていた[1]。
50歳を越して圓朝一門で音曲師の初代立花家橘之助と結婚した[1]。
晩年は名古屋市中区を経て、余生を過ごすため1935年(昭和10年)6月10日、京都市上京区 平野鳥居前[要出典]に住まいを移す[1]。しかし、そのわずか19日後の6月29日、京都大水害(鴨川水害)により自宅が倒壊して下敷きになったところに、北野天満宮そばの紙屋川が氾濫して濁水が押し寄せて、妻とともに水死した[1][2]。享年66。墓所は牛込の清隆寺[1]。法名:清浄院橘圓日香居士[1]。
芸風・人物
『子は鎹』『三味線栗毛』などが十八番であった[1]。踊りも達者で『網上』が特に評価された[1]。
兄同様に人格者とされ、賭け事や酒を嗜むことはなく、暑くても裸身にならず、座ってもあぐらは組まなかったという[1]。
橘ノ圓都が入門したとき、「圓歌」の高座名を与えて、東京の三遊亭圓歌や京都の笑福亭圓歌もいるので「ややこしいやおまへんか」と言われると「かまわん。東京、京都の圓歌とともに神戸の圓歌がいてもよい」と答えたと圓都は述べている[3]。のちに東京に興行に出た際、2代目談洲楼燕枝から圓都とともに呼ばれて、三遊亭圓歌と紛らわしいので改名してほしいと頼まれ(その場には三遊亭圓歌もいた)、「圓都」の名を与えた[4]。
弟子
脚注
注釈
出典
参考文献
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