横井太平とは? わかりやすく解説

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横井太平

(横井大平 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/29 13:49 UTC 版)

横井 太平(よこい だいへい、1850年嘉永3年) - 1871年5月21日明治4年4月3日[1])は、江戸時代末期(幕末)の熊本藩士。横井小楠の甥にあたり、兄佐平太と共に米国密航。日本初の官費留学生となる。無理な生活で病を得て帰国。後に熊本洋学校設立に努力した。

発音

「だいへい」と仮名をふった文献があった[2]。なお、「たいへい」とある文献もある[3][4]

略歴

横井太平は1850年(嘉永3年)、熊本城下の相撲町(現在の水道町)に生まれた[4]横井小楠の兄の子、甥にあたる。父時明が太平4歳のときに亡くなり、小楠が家督を継ぎ、兄佐平太と共にその養子となる。13歳のとき、松平春嶽に招聘された小楠に伴って江戸に上がる。江戸では洋学調所で英語を学ぶ。小楠の士道忘却事件の後、小楠は熊本の沼山津に帰で蟄居。同地を訪れた坂本龍馬に頼み、兄弟は神戸海軍操練所に入所。1865年に同所が閉鎖されると長崎語学所フルベッキに英語を学ぶ。兄弟は22歳、17歳のときに密航を企て、その費用は小楠門下が集めた[4]。渡航費用は主として水俣の徳富家から出た[5][6]1866年、兄弟は渡米。横井家が伊勢平氏であることや、熊本の沼山津に住んでいたことを思わせる「伊勢佐太郎」、「沼川三郎」の変名をそれぞれ用いての渡航であった[7]

ニューヨークに着くと、フルベッキの紹介状により、オランダ改革派教会事務所主事としてフルベッキら宣教師の海外派遣を担当していたジョン・メイソン・フェリスに面会し、同教会と関係の深いニューブランズウィック (ニュージャージー州)ラトガーズカレッジの付属予備校であるグラマースクールに送られる。二人は航海術を学ぶことを志していたが、米国は航海学校への外国人の入学は認めていなかった。小楠の働き掛けで日本政府を動かし、兄弟は日本政府最初の官費留学生となった[8]

留学の実際は後年ラトガース大学で研究した高木不二により判明した。異教徒改宗に対する熱意から日本人受け入れに好意的な下宿に二人は入り、ラトガーズグラマースクールに通い、家庭教師(tutor)として同校校長のアレクサンダー・マッケルヴェイ (A. Mckelvy) の指導を受けた。マッケルヴェイは牧師でもあり、日本でのキリスト教教育のために二人を大いに歓迎した[9]。フェリスの手紙によると、兄の佐平太はグラマースクールで数か月学んだのち、アナポリス海軍学校を受験したが入学は叶わなかった[10]

太平は3年後の夏、無理な生活がたたり、結核を発病し、帰国する[11]1869年、長崎で療養生活に入る。日本の現状をみるにつけ、郷土熊本に洋学校を作ろうと志し[12]、藩主を説得し、フルベッキを介してリロイ・ランシング・ジェーンズを教師に招くなどしたが、熊本洋学校の開校を待たずして病没した[13]

一方兄の佐平太は、1868年に日本人(最大6人まで)のアナポリス海軍学校入学を許可する法案が米国議会で決議されたことで、1869年12月に松村淳蔵とともに同海軍学校に受け入れられ[14]、航海学と政治法律を学んで1871年10月に中退して一度帰国し、1872年(明治5年)に再渡米し[13][15]、1875年に帰朝、同年6月元老院権少書記官になったが、同年10月結核で死亡した[16]

横井小楠が兄弟に贈った漢詩

横井小楠は、佐平太と太平の兄弟の渡航に際して漢詩を贈って激励した。

明堯舜孔子之道/尽西洋器械之術/何止富国/何止強兵/布大義於四海而巳/有逆於心勿尤人/尤人損徳/有所欲為勿正心/正心破事/君子之道在脩身

堯舜孔子の道を明らかにし、西洋機械の術を尽くす。何ぞ富国に止まらん。何ぞ強兵に止まらん。大義を四海に布かんのみ。心に逆らうこと有るも人に尤むる勿れ。人を尤むれば徳を損なう。為さんと欲する所有るも心を正にする勿れ。心を正にすれば事を破る。君子の道は身を修るに在り。[17]

熊本洋学校と横井太平

太平は野々口為志と共に藩知事細川護久、権大参事米田寅雄の了承を取り付けると、敷地の設定と校舎建築を推し進める。太平は病を押して上京し、フルベッキに米国からの教師招聘を要請する。1871年9月、米国の退役軍人リロイ・ランシング・ジェーンズを迎え、古城(現在の熊本県立第一高等学校校地)に開校するが、太平はその5か月前に他界していた[12]

1953年、太平は熊本県近代文化功労者に選ばれた[12]

墓地

脚注・出典

  1. ^ 竹中正夫 編、三井久 著『近代日本の青年群像 : 熊本バンド物語』日本YMCA同盟出版部、1980年、p.244。
  2. ^ 花立[2000:14p]
  3. ^ 平野邦雄 明治維新人名辞典[1981]
  4. ^ a b c 「熊本教育の人的遺産」熊本県退職校長会 2010年 p.136
  5. ^ 平野邦雄 明治維新人名辞典[平野:1981]
  6. ^ 花立三郎[200:15]
  7. ^ 日下部太郎の名(講座「密航、留学、維新」より)福井市グリフィス記念館、2017.2
  8. ^ 1867年、福井藩で最初の海外留学生、日下部太郎は時の越前福井藩主松平春嶽の命を受けて渡米し、ニュージャージー州ニューブランズウィックにあるラトガース大学に入学。その後も幕末からの10年間で少なくとも40人以上の日本人がラトガーズ大学に留学した。日下部太郎は伊勢佐太郎と沼川三郎の兄弟に出迎えられとあるがこれが横井兄弟である。
  9. ^ Rutgers graduates in Japan Griffis, William Elliot, 1843-1928, p33
  10. ^ Rutgers graduates in Japan Griffis, William Elliot, 1843-1928, p20
  11. ^ 高木[2006:]
  12. ^ a b c 「熊本教育の人的遺産」熊本県退職校長会 2010年 p.137
  13. ^ a b 手塚竜麿、「幕末・明初にラトガーズで学んだ日本人」『日本英学史研究会研究報告』 1967年 1967巻 70号 p.1-5, doi:10.5024/jeiken1964.1967.70_1, 日本英学史学会
  14. ^ Annual register of the United States Naval Academy. Annapolis, MdU.S. Government Printing Office、1871
  15. ^ 大倉喜八郎 著[他]、「『努力』」 実業之日本社 (1916), p.69, doi:10.11501/955095
  16. ^ 花立[200:45]
  17. ^ 「熊本教育の人的遺産」熊本県退職校長会 2010年 pp.136-137

参考文献

関連項目




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