柳宗悦芥川龍之介
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1922年(大正11年)7月27日、小穴隆一と我孫子の志賀家を訪ねている。当時スランプだった芥川は、休筆から活動再開に至った直哉の話を聞きにきたが、直哉は「冬眠してゐるやうな気持ちで一年でも二年でも書かずにゐたら」再び書けるようになると答える。芥川は「さういふ結構なご身分ではないから」と返した。その数年後、芥川は東京で直哉と会ったが、直哉から、芥川の作品には読者への隠し事で読者を釣る点や、描写に技巧が見え透ける点があると指摘される。その際、芥川は「芸術というものが本統に分っていないんです」と返答した。芥川の死後、直哉は「沓掛にて」の中で「芥川君は始終自身の芸術に疑いを持っていた」と芥川を振り返りつつ、芥川の自殺については「(腹立たしく思えた乃木希典や有島武郎の自殺と異なり)芥川君の場合では何故か『仕方ない事だった』というような気持がした」「芥川君の死は芥川君の最後の主張だったというような感じを受けている」と述べている。
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