李英燮 (大法院長)
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李 英燮(イ・ヨンソプ、朝鮮語: 이영섭、1919年11月5日 - 2000年10月11日)は、大韓民国の裁判官、民法学者、民事訴訟法学者、弁護士。韓国の歴代任期最長の大法官で第7代大法院長[1]。
本貫は全義李氏。あだ名は「韓国のカント」。父イ・サンイクは初代楊州郡南面長を務めた[2]。
経歴
日本統治時代の京畿道楊州郡(現・楊州市)南面閑山里生まれたが、父の仕事により光州に転居した[2]。光州公立普通学校(現・光州瑞石初等学校)、京城第一公立高等普通学校(現・京畿高等学校)を経て、1942年または43年京城帝国大学法学部卒。同年高等文官試験司法科合格。京城地方法院司法官試補を経て、1945年に京城地方法院判事、1947年にソウル高等法院判事、1950年にソウル地方法院部長判事を歴任した。朝鮮戦争中は法学界に入り、韓国の民事訴訟法の制定および研究に深く関与した。1952年から梨花女子大学校法政大学教授、60年に同大学長を務めた。1961年9月に大法院判事に起用され、1973年3月から憲法委員を務めた。1978年に閔復基大法院長の権限代行を経て、1979年から81年まで第7代大法院長を務めた[1]。退任後は1981年から1988年まで国政諮問委員、1982年に東大門合同法律事務所を開業し弁護士を務め、同年に国務総理人権保護特別委員会委員長、1992年に安重根義士事業推進委員会顧問、1994年に北韓人権改善運動本部顧問を務めた[3][2]。
2000年10月11日、ソウル市陽川区の自宅で老衰または心筋梗塞[2]により死去。享年81[4]。
著書
『民法総則』『新民事訴訟法上・下』『民事訴訟法』『民法総則講義』『新民法大意』『体系民事訴訟法』 など[1][2]。
エピソード
大法官の任期は合計19年8か月で、韓国史上の最長任期の大法官である[2]。また、1961年就任当時は最年少の大法官だった[3]。
維新体制下の憲法委員在任中、緊急措置違反者たちの大法院への上告を棄却し、維新憲法を正当化した。また、張俊河と白基玩が「緊急措置1号違反」として軍法会議で重刑を宣告された後、上告を棄却して最高懲役15年・資格停止15年の重刑を確定した[3]。
大法院長在任中に朴正煕暗殺事件が発生した。金載圭の弁護人団が非常戒厳の違法性を主張し、軍事法院の裁判を受けないと裁定申請をしたが、大法院判事たちは合意して非常戒厳の合法性を認め、金載圭を軍事裁判に付託した[3]。一方、金に対して内乱目的殺人ではなく、単純殺人罪の適用を主張する少数意見を出した大法官たちは保安司に連行されて拷問を受けた。その後李自身も憲法改正により任期満了前に退任したため、退任辞で「司法府」を「司法部」に例えながら、大法院長在任中は悔恨と汚辱の日々だったと述懐し、権力の手先に転落した司法府に対する痛恨の心境を表した[2]。
脚注
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