李績を左遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 00:24 UTC 版)
ある時、慕容儁は群臣を鄴の蒲池に集めて酒宴を催した。この時、司徒左長史李績へ「景茂(慕容暐の字)は幼沖であり、その器芸に目立ったところはまだ見られていないが、卿はどう思うか」と問うた。李績は「皇太子は天資にして岐嶷で、その聖敬は日が躋(昇)るように、八徳は静かながらも聞こえておりますが、二つの欠がいまだ補われておりません。遊田(狩猟)を好み、絲竹(音楽)に心を奪われる傾向があります。これが残念でなりません。」と答えた。慕容儁は側に侍っていた慕容暐を顧みて「伯陽(李績の字)の言は、薬石の恵である。汝はこれを心に留めておくように」と訓じた。だが、慕容暐はこれに不満を抱いた。その後、慕容儁は臨終に際し、李績を重用するよう慕容恪へ遺しており、慕容暐が即位した後の360年11月、慕容恪は遺言に従って李績を尚書右僕射に任じるよう進言したが、慕容暐はかつての李績の発言に恨みを抱いており、これを認めなかった。慕容恪は幾度も進言を繰り返したが、慕容暐は慕容恪へ「万機の事は叔父に委ねているが、伯陽一人に関しては、この暐に裁かせてもらう」と取り合わず、その後章武郡太守に左遷した。やがて李績は憂悶の余り亡くなったという。
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