李範教
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/03 15:09 UTC 版)
李 範教(イ・ボムギョ、朝鮮語: 이범교/李範敎、1888年7月27日 - 1951年)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の独立運動家、医師、政治家。制憲韓国国会議員[1]。
本貫は全州李氏。別名は李 相伯(イ・サンベク、이상백)[2][3]。
経歴
慶尚北道大邱(現・大邱広域市)生まれ、同道永川出身。2男3女の長男。大邱啓星学校卒、大邱東山病院医学講習所(現・啓明大学校)修了。大邱で医院を開業したが、三・一運動に参加して起訴猶予の処分を受けた。その後は警察の指名手配を避けて上海へ亡命し、1919年4月に上海臨時政府交通部交通委員に選ばれた。1919年7月に臨時政府の特派員としてしばらく慶尚北道に帰国したが、同年11月にまた満洲の奉天に渡り、出入国案内役や連絡役として活動し、同年12月にロシア・ニコルシク(現・ウスリースク)で培英学校と病院を設立した。李範奭が1921年の黒河事変でイマン(現・ダリネレチェンスク)を脱出した後、培英学校で訓練部長を約6か月間務めた。帰国後は医師業を再開したほか、米軍政庁永川郡顧問、大韓独立促成国民会清道郡支部委員長を務めた。1948年の初代総選挙では永川郡乙選挙区から無投票で当選した[2][3][1][4]。
1951年に死去[3]。1990年に建国勲章愛族章が追叙された[2]。2004年12月に永川市内の公園に追慕碑が建てられた[3]。
脚注
- ^ a b “대한민국헌정회”. www.rokps.or.kr. 2025年6月3日閲覧。
- ^ a b c 손동유, “이범교 (李範敎)” (朝鮮語), 韓国民族文化大百科事典 (韓国学中央研究院) 2025年6月3日閲覧。
- ^ a b c d “이범교 - 디지털영천문화대전”. yeongcheon.grandculture.net. 2025年6月3日閲覧。
- ^ “근현대인물자료 < 한국 근대 사료 DB”. db.history.go.kr. 2025年6月3日閲覧。
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