朱清 (元)
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朱 清(しゅ せい、1237年 - 1303年)は、モンゴル帝国(大元ウルス)に仕えた漢人の一人。字は澄叔。通州海門県崇明鎮の出身。宋代には海賊業に身を投じていたが、モンゴル帝国に投降した後は江南(旧南宋領)と大都(現在の北京)を結ぶ海上輸送路の確立に功績を残したことで知られる。
概要
モンゴルに投降するまで
長江の河口近くに位置する崇明島は、唐代のころより土砂が堆積して居住が始まり、宋代には最初に移住した姚氏・劉氏の姓を取って姚劉沙と呼ばれていた[1]。朱清の母は一族とともに姚劉沙に移住し、一族は漁業・製塩を生業としていた[1]。しかし朱清は富商の楊氏を殺してその財産を奪い、以後は沿岸部での海賊業に身を投じることとなった[1]。後に呉淞江に入ると新華鎮にて生涯の盟友となる張瑄と出会って義兄弟の契りを交わし、両者は数千の配下と5百の船を統べる一大海上勢力へと成長した[1]。
1276年(至元13年)、モンゴル軍の侵攻によって南宋の首都の臨安が陥落した後、董文炳が親族の董士選らを派遣して朱清・張瑄らに投降を促した[1]。モンゴルに投降した朱清・張瑄らは最初の仕事として臨安から接収した各種図籍を、崇明島より海路を経てクビライの下に届けた[2][3]。1279年(至元16年)には南宋が名実ともに滅亡した崖山の戦いにも加わり、この時の功績により、1280年(至元17年)正月に張瑄は総管から沿海招討使に昇格となった[2][4]。
運糧万戸府
その後、朱清・張瑄らが南宋宮廷の図籍を海上輸送した功績が評価され、旧南宋領の江南(モンゴル側からはマンジと呼ばれた)で生産された食糧を海路より大元ウルスに運ぶことが提案された[2][3]。これを受けて1282年(至元19年)に三つの運糧万戸府が新設され、朱清・張瑄・羅璧らが食糧の海上輸送を担うようになった[5][2]。この年、江淮行省は朱清らに60日の期限で平底船60隻を建造させ、新造された船は劉家港に終結した。江南の食糧を運ぶ船団は8月に出港し、1283年(至元20年)3月に直沽(現在の天津)に到着して、大量の食糧の海上輸送に成功した[6][7]。この功績により、同年12月には朱清は中万戸に、張瑄の息子の張文虎が千戸に任じられた[8][9]。また『弘治太倉州志』巻1沿革によると、同年中に朱清・張瑄らは太倉州に移住して海外交易も手がけるようになり、太倉州は「六国馬頭」と称されるほどの交易拠点に成長したという[10]。
また、1283年(至元20年)4月には第二次日本遠征(弘安の役)に先立ち、日本遠征の司令官であるアタカイの要請を受けて当時招討使であった張瑄、総管であった朱清も操船に長けた者を派遣するよう命じられている[2][11]。1286年(至元23年)には、朱清・張瑄と同格であった羅璧が脱落して運糧万戸府は二つに削減され、運糧は朱清・張瑄らの独占的事業となった[12]。同年11月には至元20年-23年(1283年-1286年)の4年間で約100万石を輸送したことが評価され、朱清・張瑄はともに海道運糧万戸に任命された[12][13]。
1287年(至元24年)、新たに尚書右丞相に抜擢されたサンガの下で行泉府司が新設され、運糧万戸府も二つ増設されて計四つとなった[14][15]。なお、同年12月には朱清・張瑄らは宣慰使に任命されている[12][16]。1291年(至元28年)8月、運糧万戸府の増設を主導したサンガが失脚すると、1287年(至元24年)に増設された二つの運糧万戸府には問題が多いとの朱清・張瑄らの要請があり、万戸府は再び朱清・張瑄らが治める二つのみに改められた[17][15][18]。
右丞相オルジェイの庇護
クビライの治世末期からはオルジェイが右丞相として中書省を統べていたが、このころ姚衍なる人物が朱清・張瑄らを告発する事件があった[19][15]。このころ、クビライは既に病床にあり、意見を求められたオルジェイが朱清・張瑄らをかばったため、両名が罪に問われることはなかったという[19]。クビライの没後、オルジェイトゥ・カアン(成宗テムル)が即位した後もオルジェイは引き続き重用され、1295年(元貞元年)1月にも朱清・張瑄を告発する「飛書」があったが、恐らくオルジェイの尽力によって批判は抑えられた[20][21]。オルジェイと朱清・張瑄らの協力関係は三名がともに失脚するまで続くこととなる。
また、1292年(至元29年)には張瑄が江南行枢密院を廃止するよう朝廷に働きかけたが、張珪がこれに反対してやめさせたとの記録がある。しかし、オルジェイトゥ・カアンの即位後にバヤンを通じて再度行枢密院廃止の要請がなされ、この時廃止が決まった[22]。なお、同年の朱清・張瑄らによる運糧は朱清が四分、張瑄が六分であったと伝えられている[23]。1294年(至元31年)10月には、朱清・張瑄らが食糧100万石を運搬してきたが、既に首都一帯では食糧が十分に行き渡っていたため、30万石分の運搬をやめるよう命じられたという[24]。
1296年(元貞2年)5月には「およそ朱清が陳列する所があれば、それを止めることがないよう」命じられ[25]、また同年7月には江西行省・河南行省でそれぞれ参政が増員されて、朱清は河南行省参政に任命されるなど、オルジェイトゥ・カアンの治世の前半に朱清・張瑄の権勢は頂点を迎えた[26][27]。
朱清・張瑄の失脚
しかし、1302年(大徳6年)正月にはまず中書省が朱清・張瑄やその息子達を解任することを提起し、また同月中には朱清・張瑄らの「不法十事」が告発されて御史台がこれを詰問することとなった[28][29]。これより先、1300年(大徳4年)からはラーンナー出兵が始まり、1301年(大徳5年)にはモンゴル高原においてカイドゥ・ウルスとの大会戦(テケリクの戦い)が繰り広げられ、大元ウルスの国庫は圧迫されていた[30]。とりわけ、オルジェイが主導したラーンナー出兵が惨憺たる結果に終わったことにより、当時国政を掌握しつつあったブルガン・カトンが潤沢な財源の確保と、オルジェイ一派の排除を目的として朱清・張瑄らの摘発を主導したものと考えられている[31]。
1303年(大徳7年)正月、遂に御史台によって朱清・張瑄およびその妻子は大都に連行され、その財産・軍器・船舶は朝廷に没収された[32]。そして、捕らえられた朱清は獄死し、その息子の朱虎は張瑄らとともに処刑された[33][34]。一方、これまで朱清・張瑄らを庇護してきたオルジェイも朱清・張瑄から賄賂を受けていた事を告発され[35]、オルジェイはオルジェイトゥ・カアンの配慮によって罷免を免れたものの、その他の大臣たちは同様の罪状によって一斉に地位を失った[36]。なお、『元史』巻94食貨志2には大徳7年に海外交易を禁じたとの記録があるが、これも朱清・張瑄の粛清に連動したものであったとみられる[37]。
なお、この朱清・張瑄逮捕に始まる一連の政変は、ペルシア語史料の『ワッサーフ史』でも言及されている[38]。『ワッサーフ史』は平章・丞相といったアミールたちが朱・張(Jū Jang)と結び、真州(Sinjū)にて鈔(chāw)を偽造し[39]、それによって許可なく海外交易を行っていたことをハルガスン・ダルハン丞相がブルガン・カトンに告発したとする[40]。そこでブルガン・カトンはアミールたちの調査・尋問を命じ、その結果バヤン平章(Bāyān pinjān=平章伯顔)、アブドゥッラー平章(ʿAbdullah pinjān=梁徳珪)、バトマシン(Bātūmasīn=八都馬辛)、ミール・ホージャ参政(Mīr khwāja samjīn=迷而火者)らが失脚し、オルジェイ丞相は悲嘆の内に死去したと述べている[40]。
一連の政変の後、籍没された朱清・張瑄の財産はブルガン・カトンが統轄する中政院の管理に委ねられた[41]。広域かつ膨大な朱清・張瑄の財産を管理するため、中政院の下には三つの提挙司が設置され、これらは「朱張財賦提挙司」とも呼ばれた[41]。接収された朱清・張瑄の財産は、ブルガン・カトンを頂点とする政会の新勢力を支える鍵となったと評されている[41]。獄死という不名誉な最期を遂げた朱清であったが、ジャワ遠征での活躍で知られる高興は「水上では朱清・張瑄らがいなければ、陸上では劉二(劉国傑)がいなければ、我は死んでいたであろう」と語り朱清らの死を惜しんだと伝えられている[42][1]。
脚注
- ^ a b c d e f 藤野 2012, p. 58.
- ^ a b c d e 藤野 2012, p. 59.
- ^ a b 『元史』巻93志42食貨志1,「海運。元都于燕、去江南極遠、而百司庶府之繁、衛士編民之衆、無不仰給于江南。自丞相伯顔献海運之言、而江南之糧分為春夏二運。蓋至于京師者一歳多至三百万餘石、民無輓輸之労、国有儲蓄之富、豈非一代之良法歟。初、伯顔平江南時、嘗命張瑄・朱清等、以宋庫蔵図籍、自崇明州従海道載入京師。而運糧則自浙西渉江入淮、由黄河逆水至中灤旱站、陸運至淇門、入御河、以達于京。後又開済州泗河、自淮至新開河、由大清河至利津、河入海、因海口沙壅、又従東阿旱站運至臨清、入御河。又開膠・萊河道通海、労費不貲、卒無成効。至元十九年、伯顔追憶海道載宋図籍之事、以為海運可行、於是請于朝廷、命上海総管羅璧・朱清・張瑄等、造平底海船六十艘、運糧四万六千餘石、従海道至京師。然創行海洋、沿山求嶴、風信失時、明年始至直沽。時朝廷未知其利、是年十二月立京畿・江淮都漕運司二、仍各置分司、以督綱運。毎歳令江淮漕運司運糧至中灤、京畿漕運司自中灤運至大都。二十年、又用王積翁議、令阿八赤等広開新河。然新河候潮以入、船多損壊、民亦苦之。而忙兀䚟言海運之舟悉皆至焉。於是罷新開河、頗事海運、立万戸府二、以朱清為中万戸、張瑄為千戸、忙兀䚟為万戸府達魯花赤。未幾、又分新河軍士水手及船、於揚州・平灤両処運糧、命三省造船二千艘于済州河運糧、猶未専于海道也」
- ^ 『元史』巻11世祖本紀8,「[十七年春正月]甲子、勅泉州行省所轄州郡山寨未即帰附者率兵抜之、已抜復叛者屠之。以総管張瑄・千戸羅璧収宋二王有功、陞瑄沿海招討使、虎符。璧管軍総管、金符」
- ^ 『元史』巻166列伝53羅璧伝,「至元十二年、始運江南糧、而河運弗便。十九年、用丞相伯顔言、初通海道漕運、抵直沽以達京城、立運糧万戸三、而以璧与朱清・張瑄為之。乃首部漕舟、由海洋抵楊村、不数十日入京師」
- ^ 藤野 2012, p. 59-60.
- ^ 『元史』巻93食貨志1,「初、伯顔平江南時、嘗命張瑄・朱清等、以宋庫蔵図籍、自崇明州従海道載入京師。而運糧則自浙西渉江入淮、由黄河逆水至中灤旱站、陸運至淇門、入御河、以達于京。後又開済州泗河、自淮至新開河、由大清河至利津、河入海、因海口沙壅、又従東阿旱站運至臨清、入御河。又開膠・萊河道通海、労費不貲、卒無成効。至元十九年、伯顔追憶海道載宋図籍之事、以為海運可行、於是請于朝廷、命上海総管羅璧・朱清・張瑄等、造平底海船六十艘、運糧四万六千餘石、従海道至京師。然創行海洋、沿山求嶴、風信失時、明年始至直沽。時朝廷未知其利、是年十二月立京畿・江淮都漕運司二、仍各置分司、以督綱運。毎歳令江淮漕運司運糧至中灤、京畿漕運司自中灤運至大都。二十年、又用王積翁議、令阿八赤等広開新河。然新河候潮以入、船多損壊、民亦苦之。而忙兀䚟言海運之舟悉皆至焉。於是罷新開河、頗事海運、立万戸府二、以朱清為中万戸、張瑄為千戸、忙兀䚟為万戸府達魯花赤。未幾、又分新河軍士水手及船、於揚州・平灤両処運糧、命三省造船二千艘于済州河運糧、猶未専于海道也」
- ^ 藤野 2012, p. 60.
- ^ 『元史』巻12世祖本紀9,「[至元二十年十二月]辛丑、賜諸王昔烈門等銀。……以海道運糧招討使朱清為中万戸、賜虎符。張瑄子文虎為千戸、賜金符」
- ^ 植松 1997, pp. 54–55.
- ^ 『元史』巻12世祖本紀9,「[至元二十年夏四月]壬辰、阿塔海求軍官習舟楫者同征日本、命元帥張林・招討張瑄・総管朱清等行。以高麗王就領行省、規画日本事宜」
- ^ a b c 藤野 2012, p. 61.
- ^ 『元史』巻14世祖本紀11,「[至元二十三年]十一月乙丑、中書省臣言『朱清等海道運糧、以四歳計之、総百一万石、斗斛耗折願如数以償、風浪覆舟請免其征』。従之。遂以昭勇大将軍・沿海招討使張瑄、明威将軍・管軍万戸兼管海道運糧船朱清、並為海道運糧万戸、仍佩虎符。勅禽獣字孕時無畋猟」
- ^ 藤野 2012, p. 61-62.
- ^ a b c 植松 1997, p. 299.
- ^ 『元史』巻14世祖本紀11,「[至元二十四年十二月]丁丑、以朱清・張瑄海漕有労、遥授宣慰使」
- ^ 藤野 2012, p. 62.
- ^ 『元史』巻93食貨志1,「二十四年、始立行泉府司、専掌海運、増置万戸府二、総為四府。是年遂罷東平河運糧。二十五年、内外分置漕運司二。其在外者于河西務置司、領接運海道糧事。二十八年、又用朱清・張瑄之請、並四府為都漕運万戸府二、止令清・瑄二人掌之。其属有千戸・百戸等官、分為各翼、以督歳運」
- ^ a b 藤野 2012, p. 68.
- ^ 植松 1997, p. 300.
- ^ 『元史』巻18成宗本紀1,「[元貞元年春正月]甲戌、有飛書妄言朱清・張瑄有異図者、詔中外慰勉之」
- ^ 植松 1997, pp. 312–313.
- ^ 藤野 2012, p. 63.
- ^ 『元史』巻18成宗本紀1,「[至元三十一年冬十月]乙未……朱清・張瑄従海道歳運糧百万石、以京畿所儲充足、詔止運三十万石」
- ^ 『元史』巻19成宗本紀2,「[元貞二年五月]丙寅、詔行省・行台、凡朱清有所陳列、毋輒止之」
- ^ 『元史』巻19成宗本紀2,「[元貞二年秋七月]壬午……増江西・河南省参政一員、以朱清・張瑄為之」
- ^ 植松 1997, pp. 300–301.
- ^ 『元史』巻20成宗本紀3、「[大徳六年春正月]丙午……中書省臣以朱清・張瑄屡致人言、乞罷其職、徙其諸子官江南者于京。……庚戌、詔官吏犯罪已軽赦宥者、仍従核問。海道漕運船、令探馬赤軍与江南水手相参教習、以防海寇。江南僧石祖進告朱清・張瑄不法十事、命御史台詰問之。帝語台臣曰『朕聞江南富戸侵占民田、以致貧者流離転徙、卿等嘗聞之否』。台臣言曰『富民多乞護持璽書、依倚以欺貧民、官府不能詰治、宜悉追収為便』。命即行之、毋越三日」
- ^ 植松 1997, p. 302.
- ^ 植松 1997, p. 327.
- ^ 植松 1997, pp. 326–329.
- ^ 『元史』巻21成宗本紀4、「[大徳七年春正月]乙卯……命御史台・宗正府委官遣発朱清・張瑄妻子来京師・仍封籍其家貲・拘収其軍器・海舶等」
- ^ 植松 1997, p. 303.
- ^ 藤野 2012, p. 69.
- ^ 『元史』巻21成宗本紀4、「[大徳七年二月]庚辰……監察御史杜肯構等言太傅・右丞相完沢受朱清・張瑄賄賂事・不報」
- ^ 『元史』巻21成宗本紀4,「[大徳七年三月]乙未……中書平章伯顔・梁徳珪・段貞・阿里渾撒里、右丞八都馬辛、左丞月古不花、参政迷而火者・張斯立等、受朱清・張瑄賄賂、治罪有差、詔皆罷之。以洪君祥為中書右丞、監察御史言其曩居宥密、以貪賄罷黜、乞別選賢能代之、不報」
- ^ 植松 1997, pp. 310–311.
- ^ 陳 2021, p. 72.
- ^ これに関連して、『草木子』には朱清・張瑄に「鈔印を賜い、その自ら印するをゆるす」との記録があり、実際に朱清・張瑄らが鈔の生産に関わっていたのは確かなようである(藤野 2012, pp. 66–67./植松 1997, pp. 312–313.)。また、『宋史』食貨志には建炎年間の始めに真州にて鈔を印造したとの記録があり、また『通制条画』には真州に近い杭州路や揚州路にて鈔の偽造が行われたとの記録もある(陳 2021, pp. 311-312.)。
- ^ a b 陳 2021, p. 72-73.
- ^ a b c 植松 1997, p. 326.
- ^ 植松 1997, pp. 332–333.
参考文献
- 植松正『元代江南政治社会史研究』汲古書院〈東洋史研究叢刊〉、1997年。ISBN 4762925101。 NCID BA66427768 。
- 藤野彪/牧野修二編『元朝史論集』汲古書院、2012年
- 陳希「『瓦薩夫史』所見“朱張案”新線索考」『元史及民族与辺疆研究集刊』第41輯、2021年
- 『新元史』巻182列伝79朱清伝
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