最後の海軍総裁
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/08 17:57 UTC 版)
矢田堀が幕府の海軍総裁に就任したのは鳥羽・伏見の戦いの敗戦の後である。この時点で幕府艦隊を掌握していたのは副総裁の榎本武揚であり、榎本は新政府への軍艦引き渡しを拒んだ末に北へ向かった。同艦隊には矢田掘の甥の荒井郁之助や弟子の甲賀源吾などが含まれている。 矢田堀は徳川家の静岡藩への転出に従って、静岡に移った。以降、静岡で沼津兵学校校長を務めたほか、のちには東京へ出て新政府にも出仕した。工部省、左院などを転々としたが、海軍に関係する職としては、海軍職制臨時取調掛や管船局事務取扱といった軽いものばかりで、不遇の思いを募らせていたとされる。勝海舟の言によれば、酒と碁でその鬱屈を紛らしていたと伝わる。明治13年(1880年)に『海上衝突予防規則平仮名附及航法図航海術』、翌年に『英華学芸辞書』を出版している。 明治20年(1887年)末、数えの59歳で死去。
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