明治3年-明治4年
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明治3年4月9日(1870年5月9日)に政府に献納、同年5月8日(1870年6月6日)に品川沖で受領した。これにより兵部省所管となり艦名は第二丁卯(艦)とされた。同年7月(1870年8月頃)に普仏戦争が勃発し、中立を守るために各港に小艦隊が派遣されたが、第二丁卯と千代田形は品川に留まり、同地の警備を行った。翌明治4年3月7日(1871年4月26日)に警備は解かれた。 明治4年5月(1871年6月から7月)日進、東、乾行、第二丁卯、龍驤、富士山、第一丁卯で小艦隊を編制する。真木長義中佐が日進、甲鉄、乾行、第二丁卯の4艦の指揮をとった。同年11月15日(1871年12月26日)に六等艦と定められた。
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明治3年 明治4年
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明治3年2月24日(1870年3月25日)海軍操練所(後の海軍兵学寮、海軍兵学校)に引き渡され、練習艦として使用された。 明治3年7月(1870年8月頃)に普仏戦争が勃発し、中立を守るために各港に小艦隊が派遣されたが、第二丁卯と千代田形は品川に留まり、同地の警備を行った。翌明治4年3月7日(1871年4月26日)に警備は解かれた。 同年9月28日(1871年11月10日)、千代田形と日進は艦隊に編入された11月15日(1871年12月26日)、7等艦に定められた。
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