日親と不受不施義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/27 06:18 UTC 版)
日蓮の法華経に対する純粋な姿勢も、南北朝の戦乱や室町時代に入ると宗派が勢力を拡大していく過程の中で、他宗派との妥協や他宗派の信者からの施しを受けるなど、次第に変質していった。特に中山法華経寺に代表される中山門流は本来他宗派に対して比較的寛容であったとされ、同寺の寺宝である立正安国論(現在国宝とされている日蓮真蹟本)が建武3年(1336年)に律宗寺院であった鎌倉・普恩寺(現在は廃絶)に貸し与えられて書写されていた事が記録されている程である。このような状況の中で、日親は不受不施を主張した。
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