日本ジャズ学校
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第二次世界大戦の終結後は、森山久がいてボーカルは石井好子だった「ニュー・パシフィック・バンド」に入り、駐日連合国軍(主にアメリカ軍)の将校クラブやキャンプ等で演奏活動をする。 その傍ら、1950年に日本初のジャズ音楽専門学校である「日本ジャズ学校」を設立し、ミッキー・カーチスや平尾昌晃、弘田三枝子、ペギー葉山、日野皓正などの戦後の日本の音楽界を代表するミュージシャンを多数育て、日本の音楽界に多大な影響を与えた。また同時に、「ティーブ釜萢とブルーリボン」などのグループとしても活躍した。なお、息子のかまやつひろしによると、生涯、日本語はほとんど話せなかったという。
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