政界での台頭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 09:00 UTC 版)
1983年、中国国民党(国民党)政権に批判的な勢力である「党外」の一員として、「台湾の将来は1800万人の住民によって決定されるべきである」と台湾に民主主義をもたらすことを綱領に掲げる「党外編輯作家聯誼会」を結成した。1986年、邱は党外運動(中国語版)の他のメンバーと共に運動の統合を促進し、民主進歩党 (民進党)を結成した。当時はまだ国民党が全島を支配していたため、民進党は目立たないようにしていたが、台湾の自決というメッセージを主張し続けていた。邱らは、民進党内で「新潮流派(中国語版)」を結成した。 台湾の政治情勢が緩和し、開放的になっていく中で、民進党は国民党と選挙で競い合うようになった。1990年代初頭には、民進党書記長に就任し、党委員長の施明徳と許信良氏の下で活躍したが、1998年の三合一選挙(立法委員、台北・高雄市長、台北・高雄. 市議会議員)の結果が振るわなかった責任をとって辞任した。民進党は国民党が運営する台北経済文化代表処に対抗して自らの代表を独自に米国に派遣することとなり、邱がワシントンD.C.に派遣された。
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