攻玉社の創立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/04 01:10 UTC 版)
この塾を創立した近藤真琴は1863年(文久3年)に軍艦操練所に通い、オランダ式の航海測量を学んでいた。近藤真琴のオランダ語の学力は軍艦操練所に通いはじめてすぐに人々が知ることになった。近藤真琴と共に勉学に志していた者の中でオランダ語が苦手な者が近藤真琴に教えを乞うようになってきた。そのため近藤真琴は同年の春夏の交に四谷坂町の藩邸内の自宅にてオランダ語を同士たちに教えるようになった。このように攻玉塾は自然発生的に生まれた塾である。 開塾当初はピラール[要曖昧さ回避]の『航海書』、レース[要曖昧さ回避]の『海軍士官必携』を教科書としてオランダ語を教えた。また、すぐに数学についても教授した。そのうち航海術についても教える内容を広げてゆき、1866年(慶応2年)には英語を教授するにいたった。 塾名については、開塾当初は近藤塾などとよばれていたと考えられるが、近藤真琴は為錯塾と塾名をつけた。1868年(明治元年)に藩命にて鳥羽藩に戻らなければならなくなり為錯塾は自然消滅した。
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