抜け駆けの家臣を庇い出奔
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/21 19:07 UTC 版)
「牧野忠成 (越後長岡藩初代)」の記事における「抜け駆けの家臣を庇い出奔」の解説
慶長5年(1600年)9月、関ヶ原の戦いに参戦すべく徳川秀忠に随従した忠成は、諸将と共に前哨戦として信州上田城に真田昌幸・信繁父子を攻める任にあたる。この時、逃げる城兵の誘いにのって城門内にまで攻め込んだがこれは真田方の巧みな計略であったために大敗してしまった。 その責を問われた大久保忠隣は現場指揮官を切腹させて許されたが、忠成は所属の指揮官の贄掃部を逃して本人も出奔してしまった。父の康成も部下の抜け駆けは戦国の倣いと弁護したため、秀忠の怒りを買い上州吾妻城に蟄居させられた。しかし、戦後数月にして処分は寛恕され、康成・忠成父子は大胡に復帰した。 その後の忠成は秀忠への忠節に励み、この件での禍もなく出世・栄転を得ることになった。
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