志斐国守とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 志斐国守の意味・解説 

志斐国守

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/28 13:40 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
 
志斐国守
時代 平安時代初期
生誕 不明
死没 不明
別名 氏:中臣志斐
官位 従五位下陰陽博士
主君 桓武天皇平城天皇嵯峨天皇
氏族 志斐
テンプレートを表示

志斐 国守(しい の くにもり)は、平安時代初期の貴族陰陽師中臣志斐とも記される。官位従五位下陰陽博士

経歴

桓武朝後半に陰陽博士を務め、延暦16年(797年)には長雨により平群山と高安山で山崩れが発生して人家が埋没したため、陰陽少属・菅原世道と共に両山に派遣されて鎮祭を行った[1]

その後、従五位下に叙せられ、平城朝では陰陽博士と天文博士を両方兼帯した。嵯峨朝弘仁2年(811年)には、陰陽道において傍輩より優れていることを賞されて内位の従五位下に叙せられている。

官歴

日本後紀』による。

脚注

  1. ^ 『日本後紀』延暦16年7月3日条

参考文献




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「志斐国守」の関連用語

志斐国守のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



志斐国守のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの志斐国守 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS