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張秉輝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/01 22:36 UTC 版)

張秉輝
『新東亜』第1巻第8期(1939年)
プロフィール
出生: 1899年(光緒25年)[1][注 1]
死去: 1948年(民国37年)[1]
出身地: 福建省福州府(現在の閩侯県[1][2][3]
職業: 軍務官僚・行政官僚
各種表記
繁体字 張秉輝
簡体字 张秉辉
拼音 Zhāng Bǐnghuī
ラテン字 Chang Ping-hui
和名表記: ちょう へいき
発音転記: チャン・ピンフイ(ジャン・ビンフイ)
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張 秉輝(ちょう へいき、1899年〈光緒25年〉 – 1948年〈民国37年〉)は、中華民国の軍務官僚・行政官僚。陳群側近の配下と目され、親日政権の中華民国維新政府で要職をつとめたが、続く南京国民政府(汪兆銘政権)では閑職に置かれた。

事績

初期の動向

福建法政学校政治経済系と江蘇陸軍学校歩(兵)科を卒業。次いで江蘇陸軍軍官教育団見習を経て、広東国立専修学院を卒業した[1]

その後は主に南方政府に属し、広東両陽警備司令部中校参謀、福建建国軍警備励支部副官長、広東大本営中央直轄第3軍司令部軍法処処長兼広東深圳籌餉局局長、広東省宝安県長、大元帥府秘書処書記官、豫魯招撫使署秘書を歴任している[1]

蔣介石国民政府では軍事委員会秘書庁秘書、総政治訓練部総務処副処長、広東省西江財政処処長兼緝私専員、国民革命軍第2路総指揮部政治訓練部秘書長、黄埔軍官学校潮州分校政治教官兼政治部主任、福州市禁煙局局長、福建全省水上公安局沿海清匪処処長を歴任した[1]

1929年以降は、上海市で任職し、社会局第四科長、上海市糧食委員会主席、上海市合作事業議員会主席などをつとめた。また民間においても、上海大晩報総経理や上海法政大学教授、上海慈善団体聯合救災会主席などをつとめている[1][2][4]

親日政権での動向

梁鴻志陳群らが創設した中華民国維新政府に参与し、1938年(民国27年)5月24日、張秉輝は教育部(部長署理は陳群で、内政部長との兼任)総務司司長に任命された[5]。陳群が内政部長専任になった後の同年8月30日、張は内政部次長に抜擢された[6]。維新政府最末期の1940年(民国29年)2月15日、アヘン等の管轄・取締に権限を持つ戒煙総局局長に異動している[7]。なお、当初の陳群は李文濱(張同様に側近の部下)に戒煙総局局長を委ねる予定だったが、アヘンへの関与を望まない李に辞退されたため、張が局長になったという。後任の次長には李が就いた[8][注 2]

1940年(民国29年)3月30日、維新政府が南京国民政府(汪兆銘政権)に合流したが、張秉輝が何らかの要職に起用された様子はなく、陳群側近としての活動に関する情報も見当たらない[注 3]1944年(民国33年)4月24日、ようやく張は立法院立法委員に任命されたが[1][9]、行政面での手腕を振るう余地はない「閑職」であった[10]

汪兆銘政権崩壊後、張秉輝が漢奸として摘発されたとの情報は見当たらない。1948年、死去。享年50[1][注 4]

著作

  • (中国文化建設協会主編)『抗戦与救済事業』(商務印書館、1937年)

注釈

  1. ^ 尾崎監修(1940)、222頁及び橋川編(1940)、409頁は、「1898年生」としている。
  2. ^ 李文濱によれば、戒煙総局局長はアヘン管理により私的にも暴利を貪ることが可能な地位と見なしていた。そのため、この時に局長就任を引き受けた張秉輝の倫理性を非難している。ちなみに本文にあるとおり、張は福州市でも禁煙局局長をつとめたことがある。
  3. ^ 一方の李文濱は陳群側近として引き続き活動しており、汪兆銘政権でも内政部常務次長、同部政務次長、江蘇省銀行董事長などの要職を歴任している。
  4. ^ ただし、徐主編(2007)、1816頁は死因や死亡地について記載しておらず、冒頭で没年のみの記載となっている。中国語版Wikipediaでは、後に中国国民党革命委員会に加入し1955年に死去、としているが、根拠資料は不明。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i 徐主編(2007)、1816頁。
  2. ^ a b 尾崎監修(1940)、222頁。
  3. ^ 劉寿林ほか編(1995)、1377頁。
  4. ^ 橋川編(1940)、409頁。
  5. ^ 維新政府令、民国27年5月24日(『政府公報』第8号、民国27年5月30日、維新政府行政院印鋳局、1-2頁)。
  6. ^ 維新政府令、民国27年8月30日(『政府公報』第22号、民国27年9月12日、1頁)。
  7. ^ 維新政府令、民国29年2月15日(『政府公報』第94号、民国29年2月19日、2頁)。
  8. ^ 李(1993)、170頁。
  9. ^ 劉寿林ほか編(1995)、1041頁。
  10. ^ 日本側メディアの評価として、立法委員は「閑職」扱いされている(『朝日新聞』昭和16年2月1日)。

参考文献

  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 尾崎秀実監修「アジア人名辞典」『アジア問題講座 第12巻』創元社、1940年。 
  • 橋川時雄編『中国文化界人物総鑑』中華法令編印館、1940年。 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。 ISBN 7-101-01320-1 
  • 李文濱「陳群其人」華東七省市政協文史工作協作会議編『汪偽群奸 禍国紀実』中国文史出版社、1993年。 



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