弘仁地震
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/17 14:37 UTC 版)
弘仁地震(こうにんじしん)は、平安時代の初期であった818年(弘仁9年)夏に、当時の東国、現在の関東地方で発生し、広範囲に被害をもたらした大規模な地震。被害は、当時の安房国と上総国(現在の千葉県南部)を除く東国全域にあたる相模国、武蔵国、下総国、常陸国、上野国、下野国に及んだとされ、特に上野国(群馬県)と武蔵国(埼玉県)の被害が大きかった[1]。発生日については、当時の暦で7月14日とする資料もあるが、必ずしも明確ではない[2]。
この地震は、海溝型巨大地震と考えられたこともあったが、内陸地震とする説が優勢となっている[3]。最大震度は、液状化の痕跡の分布状況などから、震度6であったと推定されている[4]。
被災状況は、892年(寛平4年)に完成した『類聚国史』に詳しい言及があり、東国の被災地へ朝使が派遣されて、税の免除措置を伝え、また被害の調査にあたった内容が記されている[3][5]。これはもともと『日本後紀』巻二十七にあった記述を転載したものとされている[3]。
こうした記述は、現代における考古学的調査によって裏付けられており、地割れ、液状化現象、地すべり、土砂崩れ、洪水などの痕跡が確認されている[1]。赤城山南麓では地すべりなどが多発したとされる[3][5]。
被災後、朝廷は各地に修理所を設けて、寺院と官衙などの復旧にあたった[6]。また、勅旨田を各地に設け、農業の建て直しを図った[7]。
天台宗の開祖である最澄は、地震の3年前に東国各地で布教にあたって大きな影響を残していたが、地震後の東国では村落内寺院が広まるなど、復興の過程では仏教が大きな影響力をもったと考えられている[6]。
弘仁地震以降、1200年以上にわたって上野国〜群馬県では大規模な地震が発生しておらず、住民の間には「群馬は地震がない」という思い込みが広まっている、と専門家は指摘し、警鐘を鳴らしている[5]。
脚注
- ^ a b 田中,2014,p.38
- ^ 神奈川県立図書館「弘仁9年7月に関東で地震があったというが、発生日を調査している。」『レファレンス協同データベース』国立国会図書館、2019年3月28日。2025年7月14日閲覧。
- ^ a b c d 早川由紀夫、森田悌、中嶋田絵美、加部二生「『類聚国史』に書かれた818年の地震被害と赤城山の南斜面に残る9世紀の地変跡」『歴史地震』第18号、東京大学地震研究所、東京、2002年、34-41頁、 CRID 1520572359709037568、2025年7月14日閲覧。
- ^ 田中,2014,p.39
- ^ a b c 若井明彦「視点オピニオン 古代群馬の大地震 脱「安全神話」への学び」上毛新聞社、2020年12月8日。2025年7月14日閲覧。
- ^ a b 田中,2014,p.40
- ^ 田中,2014,pp.40-41
参考文献
- 田中広明「弘仁地震の被害と復興, そして教訓」『学術の動向』第19巻第9号、公益財団法人日本学術協力財団、2014年、38-41頁、 CRID 1390282680005969920。
外部リンク
- 弘仁地震のページへのリンク