建春門院新大納言とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 固有名詞の種類 > 人名 > 政治家 > 統治者・君主 > 平安時代の公家 > 建春門院新大納言の意味・解説 

建春門院新大納言

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/14 14:49 UTC 版)

建春門院新大納言(けんしゅんもんいんしんだいなごん、永暦元年(1160年)? - 没年未詳)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の女性藤原成親の次女。母は藤原俊成の長女・京極局平維盛正室。のち吉田経房妻。子に六代(高清)、女子(藤原実宣妻、のち平親国妻)。

生涯

12、13歳の頃に建春門院女房として出仕し、新大納言と称される。女院の御所近くに局を賜り、手厚く遇されていたとされ、2、3年ほど女房を務めた。『平家物語』によれば13歳で平維盛の正室となり、承安3年(1173年)に六代を、2年後には女子を産む。

安元3年(1177年)、鹿ケ谷の陰謀が起こり、平家打倒を企てた父成親は平清盛によって処罰され、流刑地で死去した。この事から夫維盛は平家一門で苦しい立場に立たされる事になる。寿永2年(1183年)7月、平家一門の都落ちにあたり、維盛は妻子を都に残して西国へ下り、一ノ谷の戦いの前後に一門を離脱して入水自殺した。残された新大納言局は、子と共に母方一族の庇護の元で暮らした。

文治元年(1185年)3月、壇ノ浦の戦いで平家一門が滅びたのち、北条時政によって平家の残党狩りで維盛の遺児の捜索が行われた。新大納言局は六代と娘と共に菖蒲谷(京都市右京区嵯峨北ノ段町)の小房に隠れていたが、同年12月中旬、ある女によって密告され、六代は捕らえられる。六代の乳母が近い距離にあった神護寺に駆け込み、文覚上人に六代の助命嘆願を願い、文覚が源頼朝に取りなした事により、六代は助命され、出家して僧となる。建久のはじめ頃、新大納言は娘を伴って吉田経房再婚した。

建久10年(1199年)、三左衛門事件の影響を受け、六代は処刑された。正治2年(1200年)、経房の死去により再び未亡人となる。藤原実宣の妻となった娘は建仁3年(1203年)頃、実宣が北条時政の娘を妻に迎えるために離縁される。娘は31歳の建永元年(1206年)に平親国(姉妹が維盛の愛妾)と再婚するが、わずか2年後に親国が死去して未亡人となっている。

その後の新大納言と娘の消息は不明。

参考文献

関連項目





固有名詞の分類

このページでは「ウィキペディア」から建春門院新大納言を検索した結果を表示しています。
Weblioに収録されているすべての辞書から建春門院新大納言を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。
 全ての辞書から建春門院新大納言 を検索

英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「建春門院新大納言」の関連用語

建春門院新大納言のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



建春門院新大納言のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの建春門院新大納言 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS