はいしょう‐うんどう〔ハイシヤウ‐〕【廃×娼運動】
はいしょううんどう 【廃娼運動】
廃娼運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 07:03 UTC 版)
矯風会の「婦人新報」に廃娼論を寄稿したことをきっかけに、矯風会の活動に参加し、廃娼運動に取り組むようになる。1916年に飛田遊郭の開設への反対運動を展開したが、飛田新地の開設を阻止することはできなかった。その後も、住吉公園遊郭取り消し請願、吉原遊郭の再建の反対運動にも取り組んだ。
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廃娼運動
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旭川市では1896年(明治29年)に大日本帝国陸軍の第7師団が設置されたことから、翌1897年(明治30年)には遊廓が誕生し、多いときには20軒以上の遊廓で約100名もの女性たちが娼妓として働いていた。佐野は遊廓のことを女性たちを苦しめる存在として、少女時代より心を痛めていた。 当時の日本では、明治10年代頃より矯風会や救世軍を中心として、廃娼運動が全国的に活発になっていた。矯風会は廃娼運動を重要な目的に掲げていたが、中でも旭川支部は、先代支部長であるピアソン夫人を中心として廃娼運動を強く推進していた実績があり、北海道内各地の各支部の中でも特に同運動に積極的であった。 佐野もまたピアソン夫人の後任者として廃娼運動に情熱をかけ、後に矯風会会長となる久布白落実らとともに演壇に立ち、熱演で多くの聴衆を引きつけた。当時は佐野の名前は、講演者としてしばしば新聞に掲載され、旭川市民の会話に上ることも多く、小学生ですら名前を知っているほどだった。 さらに佐野は大正末期頃より、危険を顧みずに単身で遊廓に乗り込み、廃娼を訴えるビラをまいたり、「廃業は自由です。廃業したい人は、今すぐ矯風会の私のところに来てください。必ず助けてあげます」と自筆で1枚1枚書いた趣意書を密かに娼妓たちに渡して廃業を勧めるなどの活動も行なった。廃業を望む娼妓たちが次々に佐野のもとを訪れると、佐野は彼女らを自宅に匿ったり、仕事を捜したり、病気の娼妓を入院させたり、変装させて東京の娼妓救済所である慈愛館に送ったりと、廃業から自立までの援助を行なった。それらの費用は、ほとんど自費で賄っていた。講演会の最中に娼妓が救いを求めて来たので、その場にいた救世軍士官とすぐさま打合せ、変装させ、士官とともに夫婦に見せかけて本州へ逃亡させたこともあった。 こうした佐野の活動は直接的であったために、遊廓の経営者たちからは敵視され、しばしば危険な目に遭った。当時は娼妓たちが自由廃業を認められていたはずだが、それを理解していない娼妓も多く、公娼制度において遊廓の営業が公的に認められている当時においては、廃娼運動を展開する佐野たちのほうが悪者と見なされていた。 佐野が道を歩いていると、後を付け狙われることもあった。遊廓の手の者が、逃げた娼妓を追って留守中の佐野宅に上がり込んでおり、佐野が帰宅すると床に出刃包丁が突き刺さっていることもあった。遊廓に潜り込んだときに石を投げつけられることも頻繁にあり、旭橋の下で縛り上げられたり、首を絞め上げられることもあった。 ある娼妓を連れて列車での逃亡中には、車内に追っ手がいると気づき、駅で降りてもなお追われる恐れがあることから、列車のスピードが緩んだときを見計らって、運を天に任せて娼妓とともに列車から飛び降りた。幸いにも地面に草が茂っていたために奇跡的に事なきを得て、神に感謝を述べ、野宿で一夜を過ごした後に次の駅まで歩き、無事に娼妓を逃がすことができた。 あるときの講演会では壇上での熱弁中、客席に潜んでいた遊廓の妓夫が演壇に駆け上り、佐野に刀で斬りつけ、警官に取り押さえられた。襲われた佐野は一度は壇上に倒れたものの、一時的に気絶していたにすぎなかったか、または気絶のふりをして倒れていただけなのか、立ち上がって再び演説の続きを始めたという。この噂はたちまち、旭川中に広がった。 またあるときは外出中、以前から佐野の行動を敵視していた遊廓の刺客たちに取り囲まれ、刃を突きつけられて「廃娼運動をやめなければ生かしてはおかない」と脅された。このとき佐野はまったく動じなかったといい、その顛末には諸説がある。 佐野は「運動は止められません。私は死ぬことを恐れません。殺したければ殺しなさい。ただ死ぬ前に、神様に祈りを捧げたいので、ほんの少し時間をください」と言い、熱心に神に祈り続けたところ、通りかかった兵隊が祈りの声を聞きつけたことで難を逃れた。 佐野は相手に「殺すならば殺しなさい! 私もこういう活動をしている以上、いつでも死は覚悟しています!」と言い切って跪き、「神様、どうかこの気の毒な人たちに、自分の罪を自覚させ、悔い改めるようお導き下さい。この人たちは、自分の仕事がどれほど罪なことであるか、気づいていないのです」と涙ながらに祈り続けたところ、相手は祈り続ける佐野に手を出せずに引き下がった 同様に「神様、私は今この人に殺されようとしています。殺されることはさしつかえありませんが、気の毒な抱え主やこの牛太郎さんなどは、自分の仕事がどれだけ罪なことであるかを知らず、気の毒な女性を身を売ってそれが職業であるわりよいことであるように思っています。自分の罪を罪と知らないで本当にお気の毒にたえません。どうぞ神様、この人々に自分の罪を自覚させて悔い改めるようにお導きください」と涙ながらに祈り続けた。相手はその祈りの言葉に心を打たれて聞き入っていたところ、通行人が近づいてきて事情を尋ねたため、刺客の者は捨て台詞を吐いて立ち去った。 佐野には矯風会の会員、教会、救世軍と多くの協力者がいたほか、その命がけの行動が多くの人々の心を動かしたことで、一般市民の中からも運動の支援を申し出る者が現れ始めていた。一例として戦後に北海道上川支庁の母子相談員を務めた今村美代子は、7歳であった当時に母が佐野と親交があり、矯風会員でなくキリスト教徒でないにもかかわらず、佐野が娼妓を救って今村家へ連れて来た経験を持つ。 1929年(昭和4年)には、矯風会旭川支部は廃娼運動のための団体である北海道廃娼連盟に加入し、佐野はその支部長に就任した。その後も佐野の名と廃娼運動、矯風会の3つは結びついたものとして旭川市内の年配者に語り継がれ、市史や小史に書き残されることとなった。 しかし1931年(昭和6年)頃より北海道・東北地方一帯が凶作に見舞われて以降、貧困に喘ぐ家にとっては、若い娘たちが娼妓や芸妓となることが、家族を救う手段となっていた。佐野は後に凶作の影響について、この時期のほとんどの娼妓は実家が畑や馬を買うために遊廓に入ったと述べており、「馬が八円位……娘一人の値段が安いので六円……十三円位がいい方……人間が馬や畑や山にかわってしまっている」と語っている。さらに満州事変から太平洋戦争へと続く戦時下において、兵士の性を慰める存在として慰安婦が登場した。このような時代では娼妓・芸妓の存在が肯定される風潮であったため、廃娼運動は全国的に縮小傾向となった。佐野も例外ではなく、旭川に第7師団があったこともあり、その活動は廃娼運動から次第に戦争協力へと傾いて行った。佐野に救われた娼妓たちは、前述の列車で逃亡した娼妓が青森県で実業家のもとに嫁いだことを始め、後に美容師、店舗経営者、弁護士夫人などになった女性たちも多いものの、結局、佐野や協力者たちの運動は、世論を動かし、後に続く強力な運動体となるまでには至らなかった。
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