庭田重資
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/10 03:21 UTC 版)
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時代 | 鎌倉時代末期-南北朝時代 |
生誕 | 嘉元3年(1306年) |
死没 | 元中6年/康応元年8月13日(1389年9月3日) |
官位 | 正二位、権大納言 |
主君 | 花園天皇→後醍醐天皇→光厳天皇→後醍醐天皇→光明天皇→崇光天皇→後光厳天皇→後円融天皇→後小松天皇 |
氏族 | 庭田家 |
父母 | 父:庭田茂賢、母:不詳 |
子 | 資子、田向資蔭、経有 |
花押 | ![]() |
庭田 重資 (にわた しげすけ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての公卿。非参議・庭田茂賢の子。官位は正二位・権大納言。庭田家3代。
経歴
左近衛中将、蔵人頭などを歴任し、建武4年/延元2年(1337年)参議。延文4年/正平14年(1359年)正二位[1]。康応元年/元中6年(1389年)8月13日、権大納言に叙され、同日薨去[1]。享年84。
娘の源資子(すけこ、しし[2])は崇光天皇の後宮に入り、初代伏見宮栄仁親王を生んだ[1]。これ以降、代々の庭田家の女子は皇室及び伏見宮家に仕え、子をもうけることとなる。
皇族との関わり
庭田家は、皇族との関わりが深い。というのも、先述の資子に続いて、栄仁親王の息子の貞成親王と結婚し、後花園天皇と伏見宮貞常親王(旧皇族11宮家の祖先)を産んだ幸子は庭田経有の娘で重資の孫娘である[3]。また、後土御門天皇(後花園天皇の子)と結婚し、後柏原天皇を産んだ朝子は庭田長賢の娘で幸子は大叔母にあたる。現在の皇族にもその系譜は続いている。
官歴
注釈のないものは『公卿補任』による
- 徳治2年(1307年) 某日[4]:叙爵(従五位下)
- 延慶3年(1310年) 正月5日:従五位上
- 延慶4年(1311年) 2月3日:右兵衛権佐
- 応長元年(1311年) 5月10日:右馬頭
- 正和元年(1312年) 7月6日:正五位下
- 正和3年(1314年) 6月3日:左近衛少将
- 正和5年(1316年) 4月13日:従四位下。11月25日:左近衛少将
- 元亨2年(1322年) 正月5日:従四位上
- 嘉暦2年(1327年) 7月16日:右近衛少将
- 嘉暦3年(1328年) 3月16日:正四位下
- 元徳元年(1329年) 9月26日:右近衛中将
- 元弘元年(1331年) 10月28日:左近衛中将
- 元弘2年(1332年) 11月7日:去左中将[4]
- 建武3年(1336年) 8月15日:補蔵人頭、内蔵頭
- 建武4年(1337年) 3月29日:参議
- 建武5年(1338年)正月5日:従三位
- 暦応5年(1342年) 3月30日:兼越後権守
- 康永2年(1343年) 4月12日:正三位
- 康永3年(1344年) 7月29日:権中納言
- 貞和4年(1348年) 4月12日:従二位
- 延文4年(1359年) 4月16日:正二位
- 康応元年(1389年) 8月13日:権大納言、薨去(享年84)
系譜
脚注
- ^ a b c 日本人名大辞典+Plus, デジタル版. “庭田重資(にわた しげすけ)とは? 意味や使い方”. コトバンク. 2025年6月13日閲覧。
- ^ 日本人名大辞典+Plus, デジタル版. “源資子(みなもとの しし)とは? 意味や使い方”. コトバンク. 2025年6月13日閲覧。
- ^ 日本人名大辞典+Plus, デジタル版. “敷政門院(ふせいもんいん)とは? 意味や使い方”. コトバンク. 2025年6月13日閲覧。
- ^ a b 『諸家伝』巻10
外部リンク
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