広東軍政府と護法運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 16:54 UTC 版)
詳細は「護法運動」を参照 この頃、各地で地方軍人が独自政権を樹立し、「軍閥割拠」の状況であった。孫文は、西南の軍閥の力を利用し、1917年、広州で広東軍政府を樹立する。しかし、軍政府における権力掌握の為に、旧広西派の陸栄廷を攻撃したことが原因となり、第一次護法運動は失敗に終わった。また、第二次護法運動は連省自治を主張する陳炯明との路線対立により六・一六事変(中国語版)が勃発して失敗、蔣介石や陳策(中国語版)らと共に広州を脱出した。なお、この時に孫文が脱出に使用した「砲艦永豊」は、後に彼を記念して「中山」と改名された。
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