平岩元重の系統
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 05:17 UTC 版)
初祖は平岩筑後守某、三河国碧海郡坂戸(愛知県岡崎市島坂町字木ノ元)出身で坂戸城主という。その子某は五郎右衛門と称したというので前記の親吉祖先と共通性がある。その子孫太郎某、その子彦兵衛某と続き、彦兵衛の子春元(張元)は松平清康・広忠に歴仕し弓術の名手で戦功数多という。後に松平義春(右京亮)に仕えたと云い、「春」は義春の偏諱授与という。もっとも享禄4年(1531年)の土地売り状に平岩九郎右衛門張元と署名しており、主君は松平張忠(右京亮)との誤伝も考えられる。春元の子元重(権太夫)は東条松平家に属し松平忠茂・家忠(甚太郎)・忠吉の三代に仕え、やはり戦功数多である。主君松平忠吉に伴い尾張清洲藩に移り、清洲城留守居役を勤めた。かつて元重は家康の関東入国に随わずに、三河の自領に残留を主張して家康の不興を買ったため、彼を含めこの系から大名は出なかった。元重の子孫と一族も松平忠吉に仕えたが忠吉の死後、徳川義直の尾張入部で義直家臣に編入されて甚太郎衆(旧松平甚太郎家臣団の意)に含まれた。この系統の家紋は丸に相向かい張りの並び弓。 なお、三河在住時代の平岩氏は居住地の地名と思われる池端や根石を名乗った同族もいた。
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