常総時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/10/21 03:58 UTC 版)
退隠の地を求めて給地を巡り、慶応元年(1865年)下総国宗道村松村修平宅に逗留し、筑波山に登っている。慶応2年(1866年)宗道村名主五兵衛の隠宅を借り受けて塾を開き、水海道村秋場桂園、中妻村児玉梅坪等と交流した。 明治元年(1868年)10月6日下妻村大町に移り春雪楼と号し、秋場清太郎(玉如)、富村貞次郎(玄泉)、猪瀬嘉吉、飯村丈三郎、小林秀三郎(林塘)等を弟子とした。 明治2年(1869年)8月または9月、下館藩に招かれて藩校を監督した後、暮には笠間藩に招かれ、加藤桜老別荘十三山書楼に住みながら藩校で経学を講義した。 明治3年(1870年)春下館に帰ったが、三渓の門弟と藩校生徒の間に軋轢が生じたため、水海道横町石工山崎家宅に移った。門弟等が資金を出し合って私塾の開校を計画したが、間もなく土浦藩から誘いがあったため、門弟を置いて土浦に移った。
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