布施胤将とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 布施胤将の意味・解説 

布施胤将

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 20:03 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動

布施 胤将(ふせ たねまさ、正徳元年(1711年) - 寛政2年2月2日1790年3月2日))は、江戸時代中期の旗本飛騨代官。父は代官布施胤条、母は布施胤元の娘。通称は主善、庄之助、弥市郎。家禄は150俵。[1]

元文4年(1739年)家督を継ぎ、小普請となる。寛政元年(1748年小十人となる。宝暦3年(1753年信濃国御影代官となる。同7年 (1757年) の支配高は信濃国で4万8600石、当分預所5100石余である。同11年 (1759年) 飛騨代官となる。同12年 (1760年) 飛騨国南方48カ村御用木川下げの損金につき、元伐賃前貸の800両を1200両に増額して、これを補填する伺いを立て、許可される。同13年 (1761年) 1万石を増地され飛騨国・美濃国内で6万4000石余となる。明和元年 (1764年) 朝鮮通信使東海道岡崎宿宿泊にあたり、賄役を命じられる。同2年 (1765年) 飛騨国南方、北方御用木元伐の沿革取調書を幕府に提出する。同年に関東代官、同8年 (1771年) 増地1万石で陸奥国桑折代官となる。安永4年 (1775年) に関東代官、天明8年 (1788年) 出羽国柴橋代官と転任し、寛政元年 (1789年) 支配所増地で江戸廻代官へと転任したが、その後老免。同2年 (1790年) 死去。享年80。[2]

経歴

  • 元文4年(1739年)家督を継ぎ、小普請となる。
  • 寛政元年 (1748年) 小十人となる。
  • 宝暦3年(1753年)信濃国御影代官となる。
  • 宝暦11年(1759年)飛騨代官となる
  • 明和元年 (1748年) 関東代官を経て、陸奥国桑折代官となる。
  • 安永4年(1775年)再度、関東代官となる。
  • 天明8年 (1788年) 出羽国柴橋代官となる。
  • 寛政元年 (1789年) 江戸廻代官となる。
  • 寛政2年 (1790年) 死去。

脚注

  1. ^ 村上直ほか共編『徳川幕府全代官人名辞典』東京堂出版、2015年、407頁。
  2. ^ 村上直ほか共編『徳川幕府全代官人名辞典』東京堂出版、2015年、408頁。

参考文献




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  布施胤将のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「布施胤将」の関連用語

布施胤将のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



布施胤将のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの布施胤将 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS