市川局とは? わかりやすく解説

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市川局

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/15 06:12 UTC 版)

市川局(いちかわのつぼね、生年不詳 - 天正13年3月6日1585年4月5日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。毛利氏の重臣で周防高嶺城番や山口奉行を務めた市川経好の正室[1][2]。父は諸説あり、吉川氏一門の石経守の娘とする説と、宮庄基友の娘とする説がある[1]。法名は「篤隆妙張禅定尼」[1]

生涯

生年は不明だが、安芸国国人吉川氏の一門である石経守、または、宮庄基友の娘として生まれ[1]、同じく吉川氏一門である市川経好と婚姻する。

永禄12年(1569年)、夫の市川経好が筑前立花城攻略に出陣した隙を突いて、豊後の戦国大名・大友宗麟の支援を得た大内輝弘が豊後より10月10日に周防へ侵攻。大内氏残党の支援も得た輝弘は10月12日に山口を制圧し、高嶺城を包囲・攻撃する。この際、城番である市川経好は九州に在陣中のため不在であったため、内藤就藤や山県元重、粟屋元種国清寺の住持・竺雲恵心らがわずかな城兵でその留守を守っていたが、在郷の士である有馬世澄津守輔直、寺戸対馬守らが乗福寺の代僧と共に急遽登城して籠城に加わり[3]、市川局も甲冑長刀で武装して女中を従え、城兵を鼓舞して10日余の激戦に耐えて高嶺城を守りきった[1][2][4]。輝弘は城を落とすことはできず、九州より反転してきた毛利軍の前に敗北、10月25日に自害することとなった(大内輝弘の乱)。

天正5年(1577年)閏7月16日、毛利輝元から先年の大内輝弘の乱における市川局の活躍について「まことにまことに比類なく候」と称賛する書状を送られる[5][6]

天正12年(1584年10月29日に夫の市川経好が死去すると、その後を追うように、天正13年(1585年3月6日に死去[1]。法名は「篤隆妙張禅定尼」[1]

脚注

注釈

出典

  1. ^ a b c d e f g 閥閲録』巻140「市川三右衛門」、市川氏系譜。
  2. ^ a b デジタル版 日本人名大辞典+Plus(講談社)『市川局』 - コトバンク
  3. ^ 渡辺世祐 1984, p. 576.
  4. ^ 山本浩樹 2007, p. 176-177.
  5. ^ 『閥閲録』巻38「市川七右衛門」第2号、天正5年(1577年)比定閏7月16日付、いち川内つほね(市川局)宛て、てる元(毛利輝元)書状。
  6. ^ 『閥閲録』巻140「市川三右衛門」第2号、天正5年(1577年)比定閏7月16日付、いち川内つほね(市川局)宛て、てる元(毛利輝元)書状。

参考文献

関連項目



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